大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第10回:久保田麻琴
掲載日:2013年03月28日
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 大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第10回:久保田麻琴
久保田麻琴
 70年代半ばには久保田麻琴と夕焼け楽団の傑作『ハワイ・チャンプルー』のなかで喜納昌吉&チャンプルーズ(オリジナル盤の名義では“喜納昌吉と喜納チャンプルーズ”)の「ハイサイおじさん」をカヴァーし、日本復帰直後の沖縄に対していち早く熱い眼差しを送っていた久保田麻琴。ここしばらくの彼は、徳島および高円寺の阿波おどりや滋賀の江州音頭など日本の伝統音楽 / 芸能に積極的にアプローチしている。そうした活動の中でも特に力を入れているのが、宮古島の古謡や神歌。2009年には宮古島や波照間島、多良間島など先島諸島の貴重な録音をまとめた“南嶋シリーズ”を4枚プロデュース。2012年には原案・監修・整音・主演とひとり四役をこなした映画『スケッチ・オブ・ミャーク』が公開され、大きな注目を集めた。そうしたなかマレーシアのマック・チューとジェニー・チン、アレンジャーの池田洋一と共に2001年から続けているプロジェクト、BLUE ASIAの新作『RADIO MYAHK』がリリース。スワンプ・ロックやサザン・ロック、ブレイクビーツやダブのスパイスを加えながら、宮古の古謡および神歌の新たな魅力を引き出した意欲的な内容となった。同作に続き、プロデュースを手掛けた八重山民謡の巨匠、大工哲弘の新作『BLUE YAIMA』のリリースも控えた久保田に話を訊いた。


BLUE ASIA/RADIO MYAHK

――大工哲弘さんの『BLUE YAIMA』と『RADIO MYAHK』の制作をほぼ同時進行に進めたわけで、かなり大変だったんじゃないですか。
 「もう一枚別に制作してるのもあるし、他にもいろいろあってね。最近テルアビブのファンク・シーンがすごくおもしろいから、BLACK WAX(注1)の新しいアルバムはテルアビブでミックスモンスター(注2)という男にミックスしてもらってる。あっちの人はすごくシャープだよな。理不尽なことは国の人も気づいてるし、みんなが戦争したいわけじゃないからね。そのぶん頭を使ってるから、ちょっとやそっとじゃブレない。7、8年前の(ブラジルの)レシーフェにあったような状況が今のテルアビブにはあるんだ」
注1:BLACK WAX/宮古を拠点に活動する4人組インスト・バンド。ジャズやリズム&ブルースの楽曲をレパートリーとし、2011年には久保田のプロデュースによりファースト・アルバム『Naak Nee』をリリース。
注2:ミックスモンスター/ウリ“ミックスモンスター”ヴェルトハイム。テルアビブのファンク・バンド、ジ・アップルズのメンバーで、同バンドではエンジニアでサウンド・エフェクツを担当。
――今回は宮古のことを中心にお話をお聞きしたいんですけど、まずは2007年に初めて宮古に向かった理由ときっかけを教えていただけますか。
 「十津川村(注3)という修験道の聖地とされているところがあって、ひょんなことでそこに行くことになってね。そこで尋常ならざる体験があって……。それまではエチオピアに行こうと思ってたの。エチオピアにアズマリ(注4)っていう伝統音楽の歌い手たちがいて、ミシシッピ・デルタのブルースみたいな感じなんだよ。リサーチも済ませて、あとは録音に行くだけという状態だったんだけど、伸びきったゴムがぴょんと戻ってしまったように、熊野で意識が一気に日本に戻ってしまった」
注3:十津川村/熊野古道小辺路と大峯奥駈道が通る、奈良県南部の村。世界遺産'紀伊山地の霊場と参詣道'に属する。
注4:アズマリ/酒場や結婚式などで歌を披露する、一種の吟遊詩人。首都アディスアベバなどでは彼らがその歌声を聴かせるライヴハウス“アズマリ・ベッド”が立ち並んでいる。
――熊野でいったい何があったんでしょうか。言葉にできない感覚があった?
 「いや、言葉にはできるんだけど……言うべきことかどうか。アシッド体験を言葉で説明するようなものだから(笑)」
――なるほど(笑)。で、日本に意識が戻ってから、どうして宮古へ行き着くことになるんですか。
 「そもそも、なんでこれまで日本に心が向かわなかったかというと……中学・高校で源氏物語とか習っても、やっぱり当時の私にはマイルス・デイヴィスのほうが訴求力があったわけですよ(笑)」
――まあ、そうですよね。
 「そのまま大人どころか老人になってしまって、“まいったな”というタイミングだったんだな。山のなかで直感的に感じたのは、ここ15世紀ぐらいの日本じゃなく、30世紀ぐらい前の日本があるはずだ、と。そこがないとこの国のアイデンティティは成就しないんじゃないかと思ったんだよね。30世紀ぐらい前の日本を見ることはできないだろうけど、何か感覚的に触れられるものがあるんじゃないかと思い出したんだよ」
――それが東北でもなく、宮古であり八重山だったと。
 「うん、東北にも行きたかったんだけど、知り合いもいないし、バンドのツアーで行ったぐらいだからね。なぜか自分は四国や九州、沖縄など南から呼ばれることが多かった。〈ハイサイおじさん〉を発見したころの沖縄はすごくエキゾチックな場所だったし、“あそこには何かあったな”という当時の記憶が残ってたわけ。だいたいね、いわゆる島唄ブームは私にとって他人事だったんだね。イヤじゃないんだけど、私がそこに関わって何かをやろうという気持ちには一切ならなくて。島唄ブームの沖縄は私が知ってる沖縄とは違うんだよ。ナチュラル感がないというか……」
――『世界の音を訪ねる:音の錬金術師の旅日記』(注5)のなかで久保田さんが初めて「ハイサイおじさん」と出会ったときのエピソードが書いてありますね。西表島の観光バスのなかで流れていたという。
注5:世界の音を訪ねる:音の錬金術師の旅日記/2006年に岩波書店より出版された久保田の著作。ブラジルのレシーフェやモロッコのエッサウィラでの体験記などが記されている。
 「そうそう。その後、(喜納)昌吉を探すために網を張っておいたわけですよ。そうすると、地元の人たちは“会わないほうがいい”と言うわけだ(笑)。 ただ、私は“彼がどんな男だろうとこの音楽は凄い。世界に紹介すべきだ”と思ったんだね。昌吉とかディック・リーみたいな“アジアの鬼っこ”を世界に紹介できたことは、自分ではいいことしたな、という思いはあるよ」
――そもそも西表にも音楽を探しに行ったわけじゃなかった?
 「うん、そうじゃない。それも縁だよ。私にしても細野(晴臣)さんにしても自分たちの音楽の核になった。あの曲はそれだけのインパクトがあったんだ。当時、細野さんはセッション・ミュージシャンとして頂点にいたわけだけど、かといってバーバンクのセッション・ミュージシャンにはなりきれないわけですよ。リーランド・スクラー(注6)にはなれないし、なりたくない。そこに行きたかったわけじゃなかったんだね。そんなとき〈ハイサイおじさん〉を聴いてドヒャー!となってしまった。2人でずっこけた記憶があるよ」
注6:リーランド・スクラー/ジェイムス・テイラーやジャクソン・ブラウンのバックを支えてきた名セッション・ベーシスト。
――英米のロックから「ハイサイおじさん」を通じてアジアへと気持ちが向かっていった70年代の感覚と、熊野での体験をきっかけに先島に向かっていった数年前の感覚は似たものだった?
 「確かに似てると思いますよ。今回のことで言えば、熊野の山がとんでもない風景を幻視させてくれたことにより、“日本には古層がある”という感覚を持てた。一種世界を束ねることができるヘリテイジ(遺産)がこの国には存在するんじゃないかと思ったんだね。かつては奴隷貿易があり、新大陸に人々が運ばれるという理不尽なことがあった。そのなかでマーカス・ガーヴェイ(注7)が公民権運動をやって、自分たちのアイデンティティーを示したわけですね。自分たちの独自性、自分たちの言葉を主張した。僕らにしてもビートルズが好きだからといって英国人になるわけじゃない。心の芯、根っこになるような独自性、自分たちの言葉があるんじゃないか――。もともとこの列島は30世紀前からいろんな人々と文化の漂着があったわけで、それは宮古を見れば分かるんですよ。近隣からだけじゃなく、かなり遠いところからの漂着があったはずで、それを奈良・平安の時代の漢字と仏教がドミネイト(支配)した。心の芯、根っこの部分がないとマズイわけですよ。それがないとウイグルみたいな問題があちこちで起きてしまう」
注7:マーカス・ガーヴェイ/1887年、ジャマイカ生まれの黒人民族主義指導者。アフリカ回帰運動のリーダーであり、1940年の死後もジャマイカのラスタファリアンの間では英雄視されている。
――宮古にはその芯の部分、古層が濃い形で残っているんじゃないかと考えたわけですね。
 「日本中にそういうところはあると思うけど、私の場合は宮古に向かったということだね」
――宮古に初めて行かれたのは2007年ですよね。それまでは一回も行ってない?
 「いや、行ってない。宮古の場所すら分かってなかった。私は沖縄マニアというわけじゃないからね」
――そのときは“南嶋シリーズ”を制作する前提で行ったんですか。
 「全然。“古層に触れてみたい”という欲求があっただけ。沖縄には知人がいるから相談してみたんだよね。“久しぶりに沖縄に興味があって、古いものを見てみたい”と。そうしたら“今の沖縄にそういうものはないよ”と言うんだね。“沖縄本島に来ても仕方ないから宮古へ行け”と。でも、彼も70年代は“宮古の連中は酒癖も悪いし、オトーリやらされて死ぬぞ”と言ってたわけ(笑)。彼は別に宮古の神歌や神行事のことも知らないんだよ。でも、本島に長年住んだ感覚として“宮古には何かあるんじゃないか?”というものがあったんだろうね。考えてみると、“南嶋シリーズ”に入れていた音源は私は西表で〈ハイサイおじさん〉と出会った70年代の音源が多いんだけど、74年に西表に行ったタイミングで宮古まで行っておくべきだったと今になって思うよ」
――当時の音源が録音されていた現場に立ち会えたんじゃないかと。
 「そうすれば、〈ハイサイおじさん〉とは違うケミストリーが生まれたんじゃないか、とは思うけどね。ただ……それはいろいろあるからね。“あのとき行っておけば良かったな”ということはよくあるんだけど、仕方ないからねえ。で、2007年に宮古に行くことになるわけだけど、なぜか分からないんだけど、そのとき池間島に直行してるんだよね」
――宮古の本島ではなく。
 「そうなんだよ、不思議なことに。で、浜に出ておばあや子供と話してみたら、みんな真っすぐ言葉を喋るんだね。要するに“シャイな田舎のおばあさん”じゃないんだよ。私みたいに無駄話をせず(笑)、1分半ぐらいで自分の歴史を語るんだ。それで“わらべうたを歌える人、いませんか?”という聞き込みから始めて。そうしたら子供が2、3人集まってきて、“それならあそこの先生が知ってるよ!”と言うわけ。なんというか、強いんだよね」
――人間の強さというか。
 「そうだね。向こうに行ってみて、人口わずか1,500人の池間島(注8)の歌と出会ったんだけど、それがまた凄すぎるわけ。それが70年代の音源。でも、そんな歌を歌う人もいなくなってしまった。もちろん漁業がダメになってしまったということもあるんだけど、(1992年に宮古島と池間島を結ぶ)池間大橋がかかったら急速に廃れてしまったみたい。橋がかかると便利になって活気づくと思われてたんだけど、むしろ逆だったというんだね、不思議なことに」
注8:池間島/宮古島の北1.5キロに位置する、周囲10キロほどの小さな島。明治時代には人口2,000人を越えていたが、現在は1,000人足らず。
――なるほど。
 「宮古にもまた、かつてはいろんな文化と人々の漂着があったわけですよ。だから、宮古のなかでもいろいろ違うわけだね。下地勇さんというシンガーがいて、彼はミャークフツ(宮古島の言葉)で歌うことをコンセプトとしているんだけど、彼は久松っていう漁村の出身。そこはまた他の地域とも違う。大航海時代にいろんな漂着があって、そのときにいろんな種が落とされたわけだよね。石垣島の物知りのおじいが言うには、モンゴル軍の傭兵だった半島系の人達がかつて南島に渡ったと。だから与那国は馬がいるという話もあるし、あそこ(与那国)の神事は半島のシャーマンに似てる」
――そうなんですか!
 「いろんなグラデーションがあるんだよ。本当にマルチカラーなんだ」
――先島諸島は明和の大地震(注9)で一度やられてますね。大島保克さんは石垣の白保の方ですが、あそこは震災後に波照間から渡った人が多いと。
注9:明和の大地震/1771年4月に発生した大地震で、震源は八重山列島近海。宮古・八重山列島での津波による被害は甚大なもので、死者・行方不明者約12,000人と言われている。
 「そうそう。久高島(注10)からその波照間へ渡った人も多かったというし、徳之島(注11)から渡った人もいるというよね。そういう歴史の片鱗が残ってるんですよ。宮古のおじい・おばあなんかは100年前の話を昨日のことのように話すんだよね(笑)。だいたい琉球王朝の人頭税(注12)を撤廃に追い込んだのは宮古人だから、ジャマイカのマルーン(注13)みたいなものだ。新潟から来た中村十作さん(注14)という人が真珠の養殖業のため宮古に渡ったそうなんだけど、彼は人頭税廃止運動のリーダーだったんだね。300人の士族が3000人の奴隷に囲まれ、3万人の島をコントロールしてたんだけど、そのなかで撤廃を訴えることがどれだけのチャンバラだったか。素晴らしいのは宮古の農民たちだよ。手を組んで向かい合ったんだから」
注10:久高島/沖縄本島の東南5キロほどのところに浮かぶ小島。
注11:徳之島/奄美群島に属する離島。
注12:人頭税/1637年から1903年まで、宮古島と八重山諸島の各島は薩摩の支配下にあった琉球王国から重い税制度を課せられていた。15歳から50歳までの男女を対象とされたこの税制度は、長年に渡る同地の貧困の要因ともなった。
注13:マルーン/山中で武装した黒人逃亡奴隷。ブラジルではキロンボ、コロンビアではパレンケと呼ぶ。
注14:中村十作/現在の新潟県上越市の人物(1867〜1943年)。真珠の養殖事業のため渡った宮古での重い人頭税の状況に胸を痛め、当時の内務大臣へ請願書を提出。中村や宮古の農民代表の尽力により、1903年に人頭税は廃止となった。
――それは今も宮古の人たちの誇りになってる?
 「少しはあると思うけど、沖縄県全体の物語のなかでは当然前面に出ないからね」
――今回リリースされたBLUE ASIAの『RADIO MYAHK』でも池間の歌が重要な位置を占めていますね。池間の人たちは宮古の他の地域と比べても独特?
 「まあ、それぞれに独特なんだけどね。池間の言葉は7つぐらいのルーツを持ってるそうなんだよね。ということは、それだけダイナミックな混血があったということなんだろうね。前のアルバム(2009年の『SKETCHES OF MYAHK』)に入ってた〈池間口説〉はもともと黒島の歌で、つまりは八重山民謡なんだよね。大工さんのアルバム(『BLUE YAIMA』)ではその“黒島口説”をやってるんだけど、〈池間口説〉には換骨奪胎というか、'黒島から借りた歌だけど自分たちのものにしてやるよ'という部分は見えるよ。そもそもこの歌は池間賛歌なんだ。結局、同じ曲でもそれぞれの地域でシェアしてるわけですよ。たとえば〈飛騨川の水〉という曲があるけど、それは別の地域では違うタイトルで歌われてて、どうやらそっちのほうがオリジナルぽいんだね。民謡はそうやって歌い継がれていくんだね。ちなみに、宮古で一番しっかり神行事をやってるのは(伊良部島の)佐良浜という池間系のところ。池間系は見るからに中東系みたいな顔つきの人がいるんだよ(笑)。その横でギリシャ人ぽかったり、モンゴルぽい人がいたり」
――サラーム海上さんが書かれている『RADIO MYAHK』のライナーノーツのなかで「今までのBLUE ASIAは、例えるなら空港でかかっている音楽、ラウンジ音楽だった。今回、そのラウンジの幕が落ちて、後ろにリアルワールドが見えてきた」という発言をされてますが、この言葉がとても印象的でした。
 「音を奏でるということのなかにはいろんなヴァリエーションとグレイドがあるんだね。生半可なロック・ミュージシャンがニューエイジをやると魂を売ったみたいに捉えられることがあるけど、そんなことはない。カラオケが悪いということもない。ただ、音が発するところさえ分かっていれば間違いない、ということだね」
――宮古の生活に深く踏み込んだとき、それまで見えなかった古層が目の前に立ち現れたような感覚を“リアルワールド”というの言葉で説明されたと僕は解釈したんですよ。


 「確かにそういう部分はあるかもしれないね。それまでのBLUE ASIAの作品は旅行者の視点で作っていたから。ベトナムに行って『HOTEL VIETNAM』を作り、バンコクで『HOTEL BANGKOK』を作り。宮古とは5年の付き合いだから、いろんなフォークロアや言語、人種的なルーツが見えてくるわけでね。例えば……(と言ってPCで写真を見せる)これが典型的な池間民族の人たち。この人は元漁師さん」
――台湾でこういう原住民のおじさんに会いましたよ(笑)。
 「横にいたのはお土産屋のおばちゃん。クストリッツァの映画に出てきそうな感じだよね(笑)。とにかく、いろんな顔がいるんだよ。本当に宮古は奇跡的な場所だと思う。観光の手が入らなかったことで、残るべきものがきちんと残ったんだと思う。2007年から2009年までは15回ぐらい(宮古に)行ったんですよ。島の人たちとの関係がどれぐらい深まるか。宮古の人たちとの心の距離がどれぐらい縮まるか。たまたまの出会いがどれぐらい多かったか、ということだね。そういえば、“富貴”という言葉があるけど、これは神歌のなかにたくさん出てくるんですよ。向こうでは“うやき”と言うんだね。私の育った石川の小松では金持ちのことを“おやけ”って言うんだ。子供のときから意味が分からなかったんだけど、宮古に行ったら“うやき”という言葉と出会って、その瞬間に古層に触れた思いがしたんだね。古層はいろんなところにあるんだよ」
――それが見えにくくなっていたり、隠されていたりする。
 「そうそう。それが宮古では守られ、自分たちでも守ったという」
――そこが重要ですね。“自分たちで守った”という部分が。
 「そうなんだよ。だからジャマイカのマルーンと一緒なんだよ。逃亡奴隷は世界中にいるよね。ブラジルならキロンボとか。私はジャマイカのことなら知ってるくせに、宮古の人頭税のことは何も知らなかった。そこに奴隷制があったんだよ!それを言わずにどうするんだ?っていう話だよね。“三線と泡盛だけじゃないだろ!”っていう話」
――『RADIO MYAHK』にはウクライナ出身のOMFO(注13)であったり、イスラエルのサーフ・ロック・バンド、ブーム・パン(注14)のUBKがリミサキーとして参加していたりと、久保田さんの音楽地図がここにきて拡張されてるようにも見えました。
注15:OMFO/バルカンビーツの代表的プロデューサー、シャンテル主宰のエッセイからアルバムもリリースしている人物。OMFOとは“Our Man From Odessa”の略だとか。
注16:ブーム・パン/バルカンビート・ボックスとの縁も深いイスラエルのサーフ・ロック・バンド。昨年の来日公演には久保田も関わった。
 「まあ、これまでの路線上という感覚もあるけど、イスラエルに関しては“ついにテルアビブからも出てきたか”という感じがあるよ。国の理不尽な壊れ方が影響してて、ミュージシャンも傷ついてるんだね。そんななかだからこそブレない音ができる。その意味では今後の日本にも期待じゃない? こんなメチャクチャな国でいい音楽やらんでどうするの?っていう話。いくら“CDが売れない”って言ったっていい音楽は山ほどあるわけでね。(頭を指しながら)我々のここのOSは日本語でフォーマットされてるわけだよ。Mountain LionかSnow Leopardだか知らないけれど(笑)、Yamato Wolf、日本オオカミなんだよ。それを守るかどうかという問いを突きつけられてるわけだ。この100年、日本は裏表で攻撃され続けてる。精神性と霊性の部分を揺さぶられ続けてるんだよ。世の中には誰かを支配したい人がいるわけ。でも、みんなが独立し、それぞれの独自性を守っていこうということなんだ。“日本語でフォーマットされた自分たちの脳内OSを守ろうぜ”っていう話じゃん?」
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