大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第13回:長山洋子
掲載日:2013年09月20日
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 大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第13回:長山洋子
 1984年に「春はSA-RA SA-RA」でアイドル歌手としてデビュー。93年には「蜩-ひぐらし-」で演歌歌手としてデビューを飾り、この2013年は歌手デビューから30年目の節目を迎えた長山洋子。彼女が幼少時代から民謡を歌い、現在は津軽三味線澤田流の名取であることをご存知ない方もひょっとしたらいるかもしれない。演歌歌手として日本歌謡界のど真ん中で勢力的な活動を続ける一方、近年の楽曲では民謡のスタンダードをモチーフに新たな音楽世界を開拓する長山。彼女もまた、ここまで本連載で取り上げてきた日本ルーツ・ミュージックの開拓者と同じ視線を共有するアーティストである。幼少時代の民謡との出会い、デビュー時の葛藤、アイドル歌手から演歌歌手への転身、そして現在の活動まで、“民謡”をテーマにしながら本連載ならではの切り口で彼女の半生に迫った。
「お座敷で歌う歌で〈あがらしゃれ〉っていう歌があるんですけど、幼稚園でお酒を薦める歌を歌ってたんです(笑)」
長山洋子
――民謡と出会ったのは4歳のころだそうですね。当時のこと、覚えていらっしゃいますか?
 「覚えてますね。毎週月曜の夜になると、父親が必ず出かけるんですよ。どこに行くのか聞いてもなかなか教えてくれなかったんですけど、しつこく聞いていたら“民謡を習いにいく”って言うんですね。当時はまだ幼稚園なので民謡が何か分からなかったんですけど、歌は大好きだったので“連れてって!”ってお願いをして。それで手を引っ張って連れていってくれたんです。教室に行ってみたら同世代の子供なんてひとりもいなくて」
――“歌が大好きだった”とおっしゃいましたけど、当時聞いていたのは流行歌ということですよね。
 「そうですね。歌番組で流れてくるような歌とか、幼稚園で教えてくれる歌とか」
――当時の流行歌と民謡はだいぶ違いますよね。
 「確かに違うんですけど、幼稚園だから分かってなかったんですよ。たとえば天地真理さんとぴんからトリオが一緒にテレビに出てたわけで。そのなかでウチは民謡と演歌しか流れていないような家庭だったんですよ」
――民謡教室で歌いはじめたのはいつからなんですか。
 「民謡教室に行くようになった4歳のときからすぐに歌い始めたんですよ。女性の先生だったんですけど、膝の上に乗せてもらいながら歌ってたことは覚えてます」
――当時はどんな歌を歌っていたんですか。
 「なぜだか分からないんですけど、すごく大人っぽい歌を習ってました。お座敷で歌う歌で〈あがらしゃれ〉(注1)っていう歌があるんですけど、“お酒をめしあがれ”っていう歌で。幼稚園でお酒を薦める歌を歌ってたんです(笑)」
注1:あがらしゃれ / 山形県真室川町に伝えられた酒盛り唄。「あがらしゃれ」とは土地の言葉で「召し上がれ」という意味。戦後、山形民謡会によって新しく編曲されたものが全国的に有名になった。
――教室に通うのも楽しかった?
 「楽しかったですね。教室には子供がいないから、すごく可愛がってもらって」
――当時、そういう民謡教室は都内にも結構あったんですか。
 「いやいや、ないんですよ。加藤先生という方が教えてくださってたんですけど、月曜から土曜まであちこちでお教室を持ってて。私は月曜の“木の実会”という教室で習ってたんです。違う会でひとりふたり子供がいるっていう話が聞いたことがありましたけど、発表会に出るような子供は私ぐらいしかいなかったですね」
――初めて発表会に出たのは?
 「たぶん小学校に上がる前ですね。〈あがらしゃれ〉か、もしくは〈北海盆唄〉(注2)を歌ったのかな」
注2:北海盆唄 / 新潟から北海道小樽市に移住した人々が持ち込んだ「越後盆踊り唄」が原型。ザ・ドリフターズ「ドリフ音頭」の原曲でもある。
――そのころとなると、民謡よりも他に楽しいことが増えてきますよね。友達と遊んだりとか。それでも教室に通い続けたのはどうしてなんですか。
 「まあ、月曜の夜に通うだけですからね。他の日は普通に友達と遊んでるわけで、私にとっては他の友達にとってのそろばんとかお習字と一緒だったんですよ。小学校3、4年生ぐらいになったら友達からは“民謡ってなんだよ?”って言われたこともありますけど、4年生のとき、ビクター少年民謡会っていうグループのオーディションに合格したんですね。東京や埼玉、神奈川など近郊で民謡を歌ってる子供たちが組んだグループで、年も同じぐらい。民謡好きの仲間が10人近く集まっていたので、それはそれですごく楽しかったんです」
ビクター少年民謡会時代
――ビクター少年民謡会のオーディションを受けるきっかけはどういうものだったんですか。
 「『素人民謡名人戦』っていうキンカンがスポンサーになってるテレビ番組があったんですよ。夏休みや春休みに子供大会があるんですけど、そこで私が出て、〈秋田大黒舞〉を歌って優勝したんです。そのときに審査員をやってる方がたまたまビクター関係の方で、“少年民謡会のオーディションを受けませんか?”って誘われたんです」
――ビクター少年民謡会ではレコーディングもされてますよね。「ホームラン音頭」(注3)とか。
注3:ホームラン音頭 / 1982年リリース。カップリングは「ワンワン音頭」。
 「やりましたね(笑)。オリジナル曲もずいぶん作ってもらって、アルバムも出したんですよ。〈北海盆唄〉のディスコ・ヴァージョンとか(笑)」
――へえ、それは聴いてみたいです(笑)。
 「地方に二泊三日とかで営業に行ったり、いろいろやりましたよ。ビクター少年民謡会は私で確か五代目だったんですけど、修学旅行みたいで楽しかったですね。少年民謡会は中学3年生で卒業しないといけないんです。男の子は声変わりしちゃうし」
「いざデビューという段階で“洋子に演歌はまだ早すぎる”という話になって、急遽アイドル歌手としてデビューすることになったんです」
――なるほど。ところで、三味線はいつから弾くようになったんですか。
 「三味線は小学校4年ぐらいかな」
――そのころお父様から買っていただいた三味線を今も弾いていらっしゃると聞いたんですが。
 「そうなんですよ。私が最初に買ってもらったものがすでに大人用のものだったんですよ。最初は手が届かなかったんですけど、親がいい三味線を買ってくれたんですね。“これをずっと使え”という約束で。でも、子供だから集中力がもたないんですよ。正座だし、足がシビれちゃって。手も疲れてきちゃうし……最初は大変でしたね」
――で、ビクター少年民謡会を中学3年生で卒業して、その後16歳でデビューされますね。民謡歌手としての道もあったと思うんですけど、そちらに行かなかったのはなぜなんでしょうか。
 「うーん、私は民謡歌手というより、演歌とか歌謡界のほうに行きたかったんです。民謡歌手をめざしていたら、もっと違う勉強の仕方があったと思うんですけど、当時は“少年民謡のままでいいや”と思ってたんです。歌い続けたいとは思ってて、それならば演歌を歌いたいと。デビュー前もテレビのチビッコのど自慢大会に出て、演歌を歌ったりもしてたんですよ」
――ちなみに、そのときはどういう歌を歌ってたんですか。
 「石川さゆりさんの〈暖流〉(注4)です。チビッコのど自慢大会にはベストテンみたいなランキング番組があったんですけど、5週勝ち抜いてグランドチャンピオンになったとき、〈暖流〉を歌ったんです」
注4:暖流 / 石川さゆりの77年のヒット曲。作詞・阿久悠、作曲・三木たかし。
――ただ、最初はアイドル歌手としてのデビューでしたね。
 「少年民謡会を中学3年生で卒業して、高校1年の1年間は市川昭介先生(注5)のお宅で演歌のレッスンを受けたんです。そのレッスンが終わるころ、市川昭介先生と阿久悠先生に書き下ろしていただいたデビュー曲ができあがって、デモテープまで録ったんですね。いざデビューという段階で“洋子に演歌はまだ早すぎる”という話になって、急遽アイドル歌手としてデビューすることになったんです。アイドル全盛の時代ですからね」
注5:市川昭介 / 畠山みどり“出世街道”、都はるみ“アンコ椿は恋の花”などを手がけたことで知られる作曲家。手がけた楽曲は膨大な数にのぼる。2006年没。
――デモテープまで録っていらっしゃったとは知りませんでした。
 「そうなんですよ。そのデモテープを担当ディレクターがずっと引き継いで、演歌歌手になってからも担当ディレクターがそのデモテープを引き継いで。演歌歌手になってから15年目に出したアルバム(注6)でその幻のデビュー曲をレコーディングしたんです」
注6:15年目に出したアルバム / 98年の『長山洋子、市川昭介メロディーを唄う』。幻のデビュー曲〈雪国〉をはじめ、市川昭介の代表曲をカヴァーして話題となった。
――アイドル時代は民謡との接点はまったくなかったんですか。
 「ないです、まったく。演歌番組とか民謡番組に出ることもなかったですし。アイドルをめざしてデビューした子たちとよーいドンだったので、私が一番垢抜けてなかったんですよ(笑)。直前まで演歌歌手として準備をしてた私と周囲の子たちはスタートラインから違ってて、できるだけ(民謡や演歌的な)横ノリとか表打ちの部分が出ないようしてたんです」
――その後、93年に演歌歌手として再デビューされますが、澤田勝秋先生(注7)のもとで津軽三味線を習いはじめたのはいつごろからなんですか。
注7:澤田勝秋 / 存命の津軽三味線奏者のなかでも最高峰の腕を誇る大ベテラン。澤田流家元。
 「演歌になった翌年かな。94年。NHKの『どんとこい民謡』という番組の司会をやらせてもらうようになって、久しぶりに家元と再会したんですね。そのときに“(演歌で再デビューできて)良かったねえ!”って声をかけてくれて。私もちょうど演歌歌手として全国を回れるようになったころで、先輩のステージを見ると、みなさん大抵一芸を披露してるんですね。ギターをやったり、ピアノをやったり。私も来てくれたみなさんに一芸を披露したいという気持ちになってきて……そのときに三味線のことを思い出したんです。アイドル時代はずっと使っていなかった三味線を押し入れの奥から引っ張り出してきて、試しに弾いてみたら弾けるんですね。“もう一回ちゃんと練習したらステージ上で弾けるかも?”と思って、家元にお願いすることにしたんです」
――澤田先生とはビクター少年民謡界のころから面識があったんですか。
 「先生のほうは覚えてくださっていたんですけど、こちらから声をかけられるような存在じゃなかったんです。少年民謡時代の私からしてみると、家元は雲の上の方。“演歌・民謡界の山口百恵”と言われていた金沢明子さん(注8)の歌付けで有名な先生ですから。そんな家元が番組の合間に声をかけてきてくださったんで、ダメもとでお願いさせていただいたんですね。そうしたら喜んで受けてくださって、ご自宅に通うようになったんです」
注8:金沢明子 / 75年にアルバム『若い民謡』でデビューし、70年代末には民謡ブームの立役者ともなった民謡歌手。近年は寺田創一による民謡エレクトロニカ・プロジェクト、omodakaにヴォーカリストとしてフィーチャーされた。
――澤田先生から習うようになってみて、いかがでしたか。
 「日本一の津軽三味線奏者に習っているだけで、自分も上手くなっていくような錯覚を覚えました(笑)。すぐに覚えて、ステージで三味線を弾くようになったんです、立ち弾きで」
――最初から立ち弾きだったんですか。
 「そうなんですよ。普通は座って弾くんですけど、私の場合は座って弾くほうがミスタッチが多くなる。立って弾くほうが自分の感覚に合ってるんでしょうね」
――澤田先生に三味線を習ってみて、改めて気づいた津軽三味線の魅力はありました?
 「澤田流にはいろんな先生がいらっしゃるんですけど、みなさんの音色を聞き分けられるようになったんですよ。最初はみんな同じに聴こえたんですけど、全然違うんです。そのなかでも家元の音色は独特なんですね」
――先生の特徴とは?
 「味ですね。歌もそうですけど、教科書通りのものじゃなくて、どこかにクセがあって、オリジナリティーがあるんです。作られたものではなくて、長年やってこられたなかで作られてきた味わいがあるんです、家元の三味線には」
――長山さんご自身はどういう三味線を弾きたい?
 「そうですね……私はまだ家元みたいにアドリブができないので、いつかやれるようになりたいですね。多少強弱を付けるぐらいで、今はまだ遊びができない」
――遊びの部分は長く弾かないとできない?
 「あとはセンスですね。なんでも弾ける先生もいますけど、遊びの部分はセンスが必要ですし、私は家元の遊びの部分も好きなんです。間奏で家元に弾いていただく曲もあるんですけど、横にいて泣きそうになりますからね。絶妙なんですよ」
「(民謡は)確かに郷土料理に近いかも。その土地ならではの食べ物ってずっと残ってますもんね」

『帰心〜津軽三味線の旅』

――津軽三味線といえば、昨年出た編集盤『帰心〜津軽三味線の旅』には長山さんご自身のナレーションが入っていて、津軽三味線や民謡に対する思いが綴られていますね。
 「“帰心”というタイトルどおりなんですけど、私がこれまで歩んできた道程を表現するにあたって、民謡は決して欠かせないものなんですね。30周年のコンサートのときはアイドル時代の曲とともに民謡をやったんですけど、その思いを分かりやすく説明するためにこういうナレーションを入れたんです」
――ここに入っている「津軽タント節」(注9)は本当に素晴らしいですね。歌い出しから民謡ならではの魅力がグッと迫ってきて、圧倒されました。
注9:津軽タント節 / 昭和初期に作られた「藁打ちタント節」が原型。後に津軽の代表的民謡「津軽じょんから節」の伴奏部分を採り入れ、「津軽タント節」となった。
 「いやー、そうですか(笑)。でもね、ステージで立ち弾きしながら歌ったことしかなかったので、レコーディングは大変でした。ライヴのコンディションまで自分をなかなか持っていけなくて」
――他の曲も民謡がモチーフになってるものがありますよね。「木曽の翌檜」には「木曽節」(注10)のフレーズが入っていたり。こういう民謡の更新の仕方はおもしろいですね。そのままカヴァーするのではなく、現代の歌としてリメイクするという。
注10:木曽節 / 長野県木曽一帯で歌われていた盆踊り唄。明治維新当時、御岳まいりの修験者が伝えたお座敷唄が原型とされる。
 「ここ数年、原点である民謡の一節と津軽三味線を採り入れた曲作りにこだわっているんです。〈木曽の翌檜〉もそうですし、その前の〈おけさ恋唄〉も〈佐渡おけさ〉(注11)のフレーズが入っていたり、チャンチキを入れたりと民謡の雰囲気をどこかに採り入れるようにしてるんです」
注11:佐渡おけさ / 新潟、長岡、柏崎など越後一帯で歌われていた「おけさ」のなかでももっとも有名なもの。ルーツは熊本の「牛深ハイヤ節」で、現在は新潟を代表する民謡とされる。

「もう一度…子守歌」

――リリースされたばかりの新曲「もう一度…子守歌」にはどういったメッセージが込められているんでしょうか。
 「今の私の思いがそのまま描かれた曲ですね。“子供を授かって初めて親のありがたさを感じた”という話を30周年のリサイタルのときにしたら感情が込み上げてきてしまって……そのときの気持ちを膨らませて曲作りをしていただいて。唯一ここに書かれていることと事実が違う点があって。曲のなかでは母を亡くしたことになってるんですけど、実際は全然元気なんです(笑)」
――カップリングの「ママの鏡」はまた違う視点でのママの鏡ですが、バンバンバザールとの競演ということに驚きました。
 「今回初めてご一緒したんですけど、フレーズもすごく細かいし、言葉も詰まっていて、ふだんの演歌とは全然違ったんです。譜面どおりにキチンと合わせる作業がすごく大変で。でも、そうやってキチンと歌っていたらこの曲の良さが出てこない気がして、譜面どおりじゃなく、ちょっと弾んでみたりと歌い方を工夫して。だいぶいい形にまとまりましたね」

「ほっとしてください」

――前の「ほっとしてください」(注12)はジャズ調の曲でしたけど、この「ママの鏡」も演歌的ではない長山さんが出てますよね。デビュー30周年の今年、いろんな長山さんの顔が表に出てきた気がします。
注12:ほっとしてください / 2012年10月に発表されたシングル。ジャズ調のアレンジに乗って歌われる、ハートウォーミングな名バラード。
 「そうですね。演歌を20年やってますけど、アイドル時代の10年も私のなかに残ってるのかな。ノリとか雰囲気とか……演歌の方って入り口の段階でポップス系の曲に入り込みにくいところはあると思うんですけど、そういうことってないんです、私の場合」
――デビュー30年ということに関しては、どういう思いを持っていらっしゃるんですか。
 「30年は早かったですねえ。急遽アイドル歌手としてデビューすることになったときはどうなることかと思ったんですけど、アイドル時代の10年が私にとって大切な財産で。その後、演歌歌手になってから20年が経過して、ふたつ大きな財産をいただいた気がしています」
――最後にまた民謡のお話に戻りたいんですが、民謡が今も歌い継がれて理由はどういうところにあると思われますか?
 「その土地の歌だからなのかな。私は東京で生まれ育ったので、東京の民謡って音頭系ぐらいしか思い浮かばないですけど、どの地方にも根付いた民謡がありますよね。その土地で歌い継がれて残っていくんだと思います。土地によって節回しが違いますし、そういうところももっと勉強していったら面白いでしょうね」
――土地によって違うというのが面白いですよね。それこそ郷土料理のように。
 「ああ、確かに郷土料理に近いかも。その土地ならではの食べ物ってずっと残ってますもんね。民謡もそうなのかもしれない」
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