大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第16回:笹久保 伸
掲載日:2014年06月10日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第16回:笹久保 伸
 ある日Facebookを眺めていたら、こんな投稿が流れてきた。「秩父の滅びた仕事歌のCDを制作するための募金をお願いします」――呼びかけ人は秩父を地元とするギタリスト、笹久保 伸。1983年生まれの彼は21歳からの4年間を南米ペルーで過ごし、アンデスのフォルクローレを採集・研究してきたというギタリスト。アンデス音楽の魅力を現在に伝えるその音楽世界は海外からの評価も高く、日本のワールド・ミュージック界隈においても注目の若手ギタリストとして名を馳せる存在である。Facebookにはそんな笹久保による真摯な言葉が綴られていた。

 「昔、秩父が栄えた時代、裏で秩父を支え続けた秩父の仕事歌。そこには多くの人々が知らなかったもう一つの秩父の姿があります。役目を果たし、時代の変化と共に忘れ去られた『秩父の歌』を集め、それらを録音する企画を始めました」

 埼玉県秩父地方。秩父山地にグルリと囲まれた秩父盆地を中心とするこの地方は、古くから豊かな伝統文化が育まれてきた地でもある。山奥の秘境の地にも関わらず、行なわれる祭礼は年間400以上。かつては絹織物と養蚕で栄えた地であり、全国から出稼ぎに来るものも多かったという。そんな秩父の産業を支えてきたのが機織り工房で働く女性たちであり、彼女たちが仕事の辛さを忘れるために歌っていたのが、笹久保伸が現在取り組んでいる機織り歌だった。

 では、なぜアンデスのフォルクローレに取り組んできた笹久保 伸は、滅んでしまった故郷の歌に新たな息吹を吹き込もうとしているのだろうか? 秩父の地の古い記憶を辿る、超濃厚9000文字インタヴューをお届けする。

秩父の滅びた仕事歌のCDを制作するための募金をお願いします。
www.facebook.com/events/614848801940185/?fref=ts

新譜情報
笹久保 伸と現代音楽家・藤倉 大の共作アルバム『Manayachana』が9月に発売決定。タイトルの『Manayachana』とはケチュア語で「未知のもの」の意味。発売はソニーより。
「クラシックをやってもロックをやってもジャズをやっても、日本人は結局その音楽が生まれた土地においてどこまでも“よそもの”なんですよね」
――ご出身も秩父なんですよね?
 「秩父郡横瀬町(註1)の出身です。父は神奈川出身なんですけど、母の家系は代々横瀬ですね。中学校まで横瀬町に住んでいて、高校は(埼玉県)入間市。今は秩父市内に住んでます」
註1:秩父郡横瀬町/秩父市の西側に隣接する、人口8000人強の町。
――笹久保さんはいくつぐらいから音楽を聴くようになったんですか。
 「クラシック・ギターを弾きはじめたのが9歳ごろなんですけど、父親が南米音楽を好きだったので、その前から耳にはしてました。父は医療関係の仕事でペルーに行っていて、カセットテープでペルーの音楽をよく聴いていたんですね。僕もそういうものを幼いころから耳にしていたので、自然と南米音楽をやりたくなったんです」
――物心つく前から南米音楽に触れていたわけですか。
 「そうなんですよ。だから、育った環境としてはちょっと特殊だと自分でも思いますよ。ジャズやロック、ポップスに触れる機会が全然なかったし、エレキ・ギターを弾いたこともなかったので」
――子供のころは地元である秩父に対してはどういう思いを持っていたんですか。
 「入間市の高校に通っていたころは“秩父から来た”って言うだけで馬鹿にされたんですよ。僕自身、秩父弁の方言が抜けなかったし……」
――笹久保さんの世代でもまだ秩父弁の訛りってあるものなんですか?
 「いやー、すごいですよ。相づちを打つにしても“そうだんべ”とか言うし、人のことを“おまえ”とは言わないで“おめえ”って言いますからね。秩父って都心から電車で2時間ぐらいの距離ですけど、やっぱり田舎なんですよ。人もちょっと田舎っぽいというか、電車のなかで騒いでる大人がいたら確実に秩父の人っていうぐらい(笑)」
――そんなに違うもんなんですか?
 「違うんですよ。山に囲まれた盆地なので気質として閉鎖的だし、子供のころからそういう大人を見ていたから、正直、秩父がイヤで仕方なかった。早く東京に出たいと思ってましたね」
――21歳からは南米のペルーに移りますよね。“閉鎖的な秩父から抜け出したい”という思いの先にあったのがペルーだった?
 「そういう感覚もありましたけど、当時一番興味があったのがペルーの音楽だったので、“行ってみないことには分からないだろう”という気持ちが先にありましたね。ペルーには4年間いたんですけど、その間、レコーダーを手にアンデスの田舎まで行って民謡を録音したり、ホテルもない村で野宿したり……そういうフィールドワークをしてました。そうやって録音したものをギターで自分の形にアレンジし直して、ペルーのレーベルから13枚のアルバム(註2)を出しました」
註2:13枚のアルバム/ペルー滞在中の笹久保はペルーの名門レーベル、イエンプサと日本人で初めてとなる契約を交わし、2005年のファースト・アルバム『Adios Pueblo De Ayacucho』をはじめ数多くの作品を同レーベルに残している。
ペルーに渡ってすぐの頃に習ったアンデス・ギターの名手Manuelcha Pradoとのレッスン。
――アンデスの田舎に行って地元のおじいちゃんやおばあちゃんに民謡を歌ってもらうわけですよね。サラッと歌ってくれるものなんですか?
 「それが歌ってくれるんですよ。現代の日本は民謡の文化が廃れてしまったので、どこかの土地に行って農家の方に“民謡歌ってくれ”とお願いしても怒られるだけだと思うんですけど(笑)……アンデスの田舎は50年前の日本みたいな状態ですからね。ペルーにいたころは秩父の歌を使って何かを生み出そうという発想もまったくなかったし、秩父に対する特別な意識もなかったんですよ」
パンパ・カンガヨ町のバス停で、バスを待ちながらギターを弾き、村人と歌っている様子。
――そういう意識に変化が生まれたのは、日本に帰国してから?
 「そうです。ペルーにいたころから少しずつ日本を意識するようになって、そのなかで“自分が生まれたところにはどんな文化があるんだろう?”っていう根源的な疑問が湧いてきたんですね。あと、クラシックをやってもロックをやってもジャズをやっても、日本人は結局その音楽が生まれた土地においてどこまでも“よそもの”なんですよね」
――よそもの?
 「もちろんそれぞれの道を究めればクォリティの高いものはできると思うんですけど……僕は真剣にクラシックをやってた時期もあったし、海外のコンクール(註3)に出たこともあるけど、そこでたとえ入賞しても“よそもの感”が拭えなかった。言葉の壁とかじゃなくて、音楽的な壁があるんですね。音楽は確かに国境を越えるかもしれないけれど、たとえ越えたとしても、“自分のアイデンティティはどこにあるのか”という問題は残ると思うんですよ」
カンタ町で馬に乗って滝を見に行ったときの写真。
註3:海外のコンクール/笹久保は2001年にアルゼンチンのコスキン音楽祭で日本代表として演奏して以降、たびたび海外で演奏を披露。J.Sバッハ国際ギター・コンクール(ドイツ)などのギター・コンクールにも出場している。
――じゃあ、アンデスでフォルクローレを採集しているときにも“よそもの感”を感じていたんですか。
 「そうなんですよ。ペルーにいたころの僕はなるべくアンデスの人のようになろうとしていたし、ある時期は自分がアンデスの人よりもアンデスっぽいんじゃないかとも思ってたんです(笑)。でも、結局、僕はアンデスの農民にはなれないんですよね。音楽的になぞることはできるんだけど……」
――単なる技術的な話ということではなく。
 「そうですそうです。僕と同じようにアンデス音楽にハマって、ボリビアに20年住み続けている知人がいますけど、やっぱり彼もボリビア人にはなれない。それは才能とかの話じゃないんです。彼らは彼らの音楽をやってるのに、なんで自分は人の音楽をやってるんだ? それって楽をしてるだけなんじゃないか?――そう考えたとき、自分の土地の音楽に対して意識が向かっていったんですね」
「僕が秩父の歌をやろうと思った一番大きな理由は音楽的におもしろかったからなんですよ。たとえ地元の歌をやろうと思っても、音楽的におもしろくなかったらやってないと思う」
――そして帰国後に故郷・秩父の歌の調査を始めるわけですね。
 「ただ、日本に帰ってきて6年ぐらいは何もできなかったんです。“自分の国のものをやろう!”と思っても、今から三味線や尺八を始めようとは思えなかったし、雅楽をやろうとも思えなかった。そのなかで“民衆の歌ってどういうものなんだろう?”という意識が芽生えてきたんです。“かつて普通の人たちが歌ってたものってどういう歌なんだろう?”ということですね。それで秩父の歌の調査を始めたんです」
――実際に調査を始めてみていかがでした?
 「秩父のどの地域でも昭和初期ぐらいまでは歌われていた歌が、60年代の高度経済成長期のあたりでプッつりと途絶えてしまっていたんですね。だから、今では歌える人がいなくなってしまったんです」
――記録としても残っていないんですか?
 「『秩父の民俗 山里の祭りと暮らし』(註4)というブ厚い本を書いた栃原嗣雄さん(註5)という秩父の民俗学者の方がいるんですけど、その栃原先生が60年代に機織り歌を録音していたんですね。歌っていたのは当時70代。だから、明治生まれの方々ですよね。栃原先生は機織り工房にそういう方々を訪ねて、4、5人録音していたんです。テープで1時間分ぐらい、曲数で言うと15曲ぐらいかな」
註4:秩父の民俗 山里の祭りと暮らし/秩父の習俗や生活、民俗芸能や祭りを紹介した500ページ強の大著。貴重な写真や図版も多数収録。2005年、幹書房より刊行。
註5:栃原嗣雄/昭和12年、秩父郡長瀞町生まれの郷土史家。
――大変貴重な記録ですね。
 「それが今、秩父に残っている唯一の音声資料だと思います。機織り歌、麦打ち歌、雨乞いの歌、子供の遊び歌……。でも、僕がそのメロディを耳にできたのは、かつて秩父で歌われていた歌のほんの一部なんだと思います。そもそも秩父でも歴史や郷土文化を研究してる人はいるんですけど、歌になるとあまり研究してる人がいないんですね。栃原先生は『秩父の唄』(註6)っていう楽譜つきの本も出してるんですけど、それにだいぶ助けられました」
註6:秩父の唄/1975年、ちちの木の会から刊行された『秩父山村民俗2 秩父の唄』。
――昔はもっとたくさんの歌が歌われてたんでしょうね。
 「ものすごい数があったみたいですよ。機織り歌にしたって、機織りという仕事自体がなくなったら歌う必然もなくなってしまうわけで、そうなると当然歌も消えてしまう。手織りから機械織りに変わったタイミングで歌が途絶えてしまったらしいですね」
――秩父という土地のことについても、いろいろお聞きしたいんですけど、もともと秩父は山に囲まれた盆地だったため、麦や米の耕作地にできるような場所が少なかったと言いますよね。その代わり養蚕と機織りが主な産業だったと。
 「そうですね。それが高度経済成長期に機織りや養蚕が完全に廃れて、その代わりにセメント工場へ舵を切ったという。山を削ってセメント工場をどんどん作っていったんですね。今でも機織りをやってる工場はあることにはあるんですけど、手織りじゃなくて機械でやってるんですよ。だから、僕がいま調査しているような機織り歌はもう存在していないんです」
秩父の写真家: 清水武甲が撮った昔の武甲山。今はセメント採掘によりボロボロになっている。
――機織りに従事していたのはほとんどが女性だったらしいですね。
 「うん、そうですね。ただ、機織りをしていた女性たちを雇っていたのは旦那衆と呼ばれる男性たち。彼らは裕福だったので遊び歩いていたみたいですよ」
――機織り工房で働いていた女性のなかには十代の子も多かったとか。
 「資料には9歳ぐらいの女の子が年季奉公の労働者として各地農村から秩父に集まってきたということが書いてありましたね」
――9歳!
 「しかも10年奉公だったそうなんですよ。要するに、10年間逃げられない。9歳の子供にとってはめちゃくちゃ過酷ですよ」
――秩父以外の農村から来た女の子も多かったそうですね。
 「新潟とか福島から奉公に来た女の子も多かったらしいですね。だから、機織り歌には悲しい歌詞のものが多いんですよ。でもね、10年秩父で働いて故郷に戻っても、機織りの音が懐かしくなってしまって、自分から秩父に戻った人もいたらしくて」
――単純じゃないんですよね。単に“搾取された悲しい労働者の物語”というわけでもなく、そこには喜びを含む活き活きとした人生があったという。
 「そうなんですよね。……そういえばね、機嫌が悪いときに歌う〈クイクイ節〉という歌があるんですよ」
――へえ!
 「逆に機嫌がいいときに歌う〈ざんざ節〉があったり……そういう歌を機織りの女性たちは即興的に歌っていたそうなんですね。番頭などを冷やかす即興的な歌もあったそうで、それがまた〈あなた男前だから遊びに行きましょうよ〉みたいな歌詞なんです(笑)」
――おもしろいですね(笑)。
 「粋ですよね。ちょっとスケベな歌もありますよ。それは流石に僕は歌えないけど……いや、歌ってもいいんですけど、誰も喜ばないだろうし(笑)」
――機織り歌や麦打ち歌っていうのは、昔は日本中どの村でも歌われていた仕事歌ですよね。庶民の生活のなかで歌われてきた歌というか。
 「そうですね」
――そういう民衆の歌を採集していくという作業は、笹久保さんがかつてアンデスでやっていたことと同じですよね。
 「そう、一緒だったんです(笑)。結局はそういう歌が好きなんでしょうね。現代の音楽って基本的には誰かに聴かせるために歌われたり、演奏されるわけじゃないですか。でも、アンデスのフォルクローレや秩父の機織り歌は誰かに聴かせるためのものじゃなくて、あくまでも個人的なものだった。機織りをしながら歌う、ある意味じゃひとりごとみたいものですよね」
――漁師歌や木遣り唄のように合唱すらしないという。
 「そうそう。そういえばね、秩父の機織り歌って、織る機によってリズムが変わってくるらしいんですよ。織るものによって模様が違うわけですから、テンポが変わってくるんですね。だから、機織り歌といってもいろんな種類があったみたい」
――歌のなかにかつての人々の生活のリズムが刻み込まれているわけですよね。
 「だから、機織り歌のなかにはヘタな郷土資料よりも当時の秩父の情景が描写されてるんです。“機神様(註7)よ、どうかこの手が上がりますよに”っていう歌詞があるんですけど、そこには“機織りがうまくなるように”という願いが込められているんです。歌というか、祈りですよね」
註7:機神様/はたがみさま。 機神様(天八千々姫命と天御鉾命)を祭神として祀った神社は栃木県足利市の織姫神社をはじめ数多く、栃木県小山市のように神様に祈りを捧げる信仰行事、機神講(はたがみこう)も行われていた地域も。
――ミュージシャンとして見たとき、秩父の古い歌にはどのような音楽的魅力があると思われますか?
 「メロディが独特でキレイなんですよね。だからね、僕が秩父の歌をやろうと思った一番大きな理由は音楽的におもしろかったからなんですよ。たとえ地元の歌をやろうと思っても、音楽的におもしろくなかったらやってないと思う。武甲山(註8)の雨乞いの歌も子供の遊び歌もすごくユニークなんです。今まで20枚ぐらいアルバムを作ってきたんですけど、アルバムのなかに自分の歌を入れたことがなかったんですね。ペルーの歌を歌ったことはあるんですけど、録音したことがなかったんです」
註8:武甲山/秩父市と横瀬町の境界に位置する、標高1300メートルの山。秩父神社の神奈備(かんなび)。
――どうして?
 「納得できないというか、どうもしっくりこなくて。でも、秩父の歌であれば自分が歌ってもいいのかなと思えたんですね」
――それはなぜなんでしょうか。歌うこと自体に抵抗感があったわけじゃないんですよね?
 「うん、なかったですね。なんというか……歌って一発で本物か・そうじゃないか分かると思うんですよ。それはスペイン語の発音がどうこうという話じゃなくて……農民の人たちが歌ってきたものを同じように歌うことは僕にはできなかった」
――でも、秩父の歌であれば自分が歌ってもいいだろうと。
 「思えたんですよね、なぜか……やりやすかった点がひとつあって、秩父の仕事歌を歌ってる人が他に誰もいなかったということ。秩父の人といっても誰もその歌を知らないわけです。これが東北みたいな場所だったら他に歌い継いでいる方がたくさんいるわけですけど、秩父の場合は自分が歌うしかなかった。民族資料館でアーカイヴするんじゃなくて、秩父の大地に生きているものとして返すというか、自分の力で再生させたかったんですね。僕がやらなかったら誰もやらないだろうし……」
――いま、秩父の仕事歌をレコーディングしてるんですよね? アルバムとしてリリースする予定と聞いてますが。
 「そうなんですよ。あと少しで録り終わるんですけど、どういう形でリリースするのかは決めてなくて。でも、夏には出したいと思っています」
――本当に楽しみです。こういう形でこそ次の世代に歌がパスされていくんだと思いますし。
 「若い子にも興味を持ってもらいたいですよね。だからいわゆる民謡ぽいアレンジにしなかったし、なにより僕は民謡を歌えないし……エレキ・ギターでグアーッと演奏しているものもありますし、あくまでも自分流でしか歌えない。でも、現在誰も歌い継いでいる人がいないので、僕なりの形でやっていいんじゃないかと思ってるんですね」
「(秩父文化を)直接的なアプローチではなくて、客観的なスタンスからアート作品に還元するというのが秩父前衛派のコンセプトなんです」
――秩父に関する活動としては、笹久保さんが中心となった秩父前衛派(註9)というアート集団での活動も2009年からスタートさせてますよね。
註9:秩父前衛派/笹久保のほか、清水悠(ギタリスト)や青木大輔(サンポーニャ奏者)らによるアート集団。8ミリ・フィルムによる映像制作やパフォーマンス、絵画、文学などボーダレスな活動を続けており、2014年1月にはCDとDVDからなる秩父前衛派名義の作品集『秩父前衛派』(現代企画室)も発表された。
 「そうですね。いろいろ調査していくなかで分かってきたのは、現代の秩父に残っているのは、あくまでも素晴らしかった秩父文化の残像というか残りカスみたいなものということ。どの歴史研究家も口を揃えて“秩父は滅びた”と言うんですね。高度経済成長期ぐらいを境に古い文化がなくなってしまった、と。そういうものを直接的なアプローチではなくて、客観的なスタンスからアート作品に還元するというのが秩父前衛派のコンセプトなんですね。秩父の河原で拾ってきた石をそのまま売るんじゃなくて、その石を使ってまったく違う何かを作り出すような……」
秩父の大滝の小倉沢で映画撮影をしたときの写真。
――なるほど。
 「民族文化を研究していっても最終的には研究室にアーカイヴされるような“資料”になってしまうと思うんですよ。でも、その文化が生まれた時代とは生活も何もかもが違うわけで、そのままの形ではなかなか継承されにくい。僕がそのなかでできる唯一のことというのが、アートに還元した形で生命力を維持するということ。そういうなかで秩父前衛派のコンセプトが固まってきたんです」
――秩父前衛派のメンバーはみなさん秩父出身なんですか。
 「ひとり(群馬県)高崎市の人がいますけど、あとは秩父の人間ですね。ま、秩父前衛派はバンドでもプロジェクトでもないので、僕の周りにいる人全員が秩父前衛派という認識でもありますけど」
――ところで、秩父にアートのシーンはあるんですか?
 「それが全然ないんですよ。でも、もともとは力がある土地なんです。秩父事件(註10)という革命運動が起きた土地でもありますし」
註10:秩父事件/1884年(明治17年)10月、民権運動に対する政府の弾圧政策に反発していた自由党員や、苦しい生活を強いられていた農民らが秩父市内で起こした武装蜂起事件。
――その力というのはどこから生まれるものなんでしょうね。盆地のある種閉塞的なコミュニティだからこそ育まれてきたものがある?
 「団結力はあると思いますよ。祭りとなると異常に盛り上がるんですよね。祭りの数ヵ月前から会社を休んで準備してる人もいるぐらいですから(笑)」
――笹久保さん自身、かつては秩父の閉鎖性がイヤだったものの、今はそのなかから生まれる秩父独特の力に可能性を見出すようになってきているわけですね。
 「うん、そういうことですよね。狭い地域なので人と人の結びつきが強くて、ある友人は“秩父は血が濃そう”って言ってましたけど(笑)、確かにそういうところはあると思うんですよ。みんな知り合いだし……」
――笹久保さんの活動は秩父の人たちにはどう受け止められてるんですか。
 「みんな全然興味がないんですよ(笑)。秩父に文化はあるけど、文化に興味がある人が少なくて」
――ご自身の活動でそういう状況を変えていきたいという意識もあるんですか?
 「前は全然なかったんですけどね。結果的に何かが変わっていったらおもしろいとは思うし、一緒に調査する仲間が増えていったらおもしろいとは思います。でも、僕たちの活動で秩父を活性化しようという意識はそんなにないんですね」
――地域活性化のためのプロジェクトじゃなくて、あくまでもアート表現であるという。
 「そうですね。好きだからやってるというのが根底にはあるし、秩父の人たちも実際に地元の仕事歌を聴いたら“こんなにいい歌があったんだ!”って驚くんじゃないかという期待もあるんです。あとね、これだけは強調しておきたいんですけど……」
――はい。
 「いま作ってるアルバムも単に秩父の歌を録音することだけをテーマにしたものじゃないんです。あくまでも音楽的なおもしろさを追求するのが目的だし、そういうものになるはずなんです」
――これまで笹久保さんがやってきたことと地続きになってるわけですもんね。
 「そうですね。アンデスに行ったからこそ見えてきた秩父の姿というものがあるわけで、ずっと秩父にいたらこういうこともやってないと思いますしね」
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