大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第17回:木津茂里
掲載日:2014年10月28日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第17回:木津茂里
 民謡とは日本のソウル・ミュージックである。そして、そのことを意識させてくれる民謡歌手・太鼓奏者が木津茂里だ。わずか3歳で初舞台を踏み、現在まで民謡の奥深い魅力を探求し続けてきた彼女は、細野晴臣坂田 明などさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーション、中央アジアや南米も含む全世界での演奏活動など、広範囲の活動でも知られている。このたびリリースされた『SHIGERI BUSHI』は彼女にとって初のフル・アルバムとなる。プロデュースは青柳拓次LITTLE CREATURES)、ゲストは細野晴臣や津軽三味線の大家である澤田勝秋大島保克新良幸人といった盟友たち、マスタリングは久保田麻琴。古くから伝わる民謡と細野らの書き下ろし曲が並ぶこの作品には、民謡を現代のソウル・ミュージックとして歌い続けてきた木津だからこそ掴み取ることのできた“日本の歌”がある。自身の求める歌にひとり向かい合い、格闘し続けてきた木津茂里の民謡一代記――。彼女の言葉を通して、新しい“日本の歌”と出会ってほしい。
「20代前半、趣味でゴスペルをやってたんですよ。でも、突き詰めていくと“ジーザス!”とは歌えない自分がいて……。足元を見たら、自分にとってのゴスペルがあったんですね。それが民謡だった」
――生まれは横浜ですよね?
 「そうです。バリバリのハマっ子です(笑)」
父、木津竹嶺氏と。
――お父様の木津竹嶺さんは尺八奏者でいらっしゃいますが、子供のころから民謡を耳にしていた?
 「そうですね。なにせ母のお腹にいるころから民謡を聴かされてましたから。父親は新潟の魚沼の出身なんですけど、私がまだ子供だった昭和40年代、魚沼では宴会となるとみんな民謡を歌ってたんです。父以外の親戚もみんな〈越後松坂〉(註1)を歌えたんですね。私はそういう風景をリアルタイムで経験できたギリギリの世代。藁葺き屋根の家がまだ残っていて、養蚕をやってるお宅もまだあって。それも昭和50年代に入るとみんなカラオケや大正琴をやるようになって、だんだん民謡を歌わなくなっていくんです」
註1:越後松坂 / 越後(新潟)に伝わる祝い唄。旅芸人や瞽女によって各地へ伝えられた。
――子供のころの木津さんにとって、民謡はどういった存在だったんですか。
 「音楽というよりも生活の一部ですよね。学校から帰ってくると家では尺八や三味線の音色が鳴っていて、“あ、歌わなきゃ”という。学校の授業と同じような感覚だったと思う」
――“好きだから歌う”というようなものではなかったわけですね。
 「ぜんぜん(笑)。そういう感覚を持てるようになったのは二十代を過ぎてからで、それまではイヤでイヤで仕方なかった。ただ、私が子供のころは佐渡の立浪会とか富山の新川古代神保存会にすごい踊り手さんがいっぱいいたんですよ。子供ながらにワクワクしながら観てましたよ。三味線の名手の方もいたし……104歳で亡くなったおじいちゃんがいたんです。〈越後松坂〉がうまくてね」
――民謡から離れた時期はなかったんですか?
 「ありました。20代前半、趣味でゴスペルをやってたんですよ。でも、突き詰めていくと“ジーザス!”とは歌えない自分がいて……私、キリスト教徒(クリスチャン)じゃないし(笑)。足元を見たら、自分にとってのゴスペルがあったんですね。それが民謡だった」
――“ジーザス!”と歌うことに違和感を感じれるか / 感じれないか、そこは分かれ目な気がしますね。ゴスペルに限らず、異国でその土地の人間になりきることに違和感を感じない人は多いですから。
 「でもね、当時は津軽民謡をやってても同じ感覚になってたんですよ。津軽民謡の大家のなかで太鼓を叩くと、“おまえの太鼓は違う!”と言われるわけですね。でも、どこが違うのか分からない。それで“やっぱり津軽の人じゃないと津軽民謡はやっちゃいけないのかな”と一時期すごく悩んで……それで私の場合はゴスペルにいったんです」
――でも、進んだ先のゴスペルでも悩んで。
 「そうなんです。だからね、思い詰めちゃうタイプなんですよ(笑)。ただ、津軽民謡だけを突き詰めていくのは無理かもしれないけれど、私自身の血を活かして表現できるものがあるんじゃないかと思うようになって。細野(晴臣)さんとか久保田(麻琴)さんの音楽に影響された部分もありますし、村で実際に農作業をしていない私のような世代でも表現できるものがあるんじゃないかって……」
――ハマっ子である木津さんにしか歌えない民謡があるんじゃないかと。
 「そうですね。二十代のころ、ジョージ・クリントンの来日公演を観に行ったことがあったんですけど、それが衝撃的だった。リズムのタメもすごいし、照明の色彩もすごくて……エネルギーとセンスにびっくりしちゃって。そうやっていろんな音楽に触れるなかで、民謡との距離を少しずつ取れるようになってきたんだと思う。それまでは本当に生活の一部でしたし、十代のころは民謡の世界に疑問を持っていましたから」
――疑問?
 「振り袖を着て民謡を歌うことにどうも疑問があったんですね。かといって歌うこと自体は嫌いじゃないわけで、民謡のコミュニティに対してどう距離を取っていいか分からなかった」
――家元の歌唱法が絶対的だったり、コンテストで勝ち上がっていくことが重要視されていたりと、民謡を通して自己表現しにくい環境ができあがっていますよね。
 「まったくその通りですね。小学校のころ一回だけコンクールに出たことがあるんですけど、一回でやめてしまった。民謡に順位をつけることに疑問を感じちゃった。私自身、生意気な子供だったんでしょうね(笑)」
マレーシア公演 ソロツアー(2011年7月14日)
――90年代からは仙波清彦はにわオールスターズ(註2)への参加や細野晴臣さんとの共演など、民謡以外のフィールドでの活動が増えていきますよね。どのようなきっかけでそういった活動は始まったんですか。
註2:仙波清彦とはにわオールスターズ / ジャンルレスな活動を続ける打楽器奏者、仙波清彦をリーダーとする巨大オーケストラ。
 「高校生のころ、伊藤多喜雄さん(註3)のTAKiO BANDで太鼓をやらせていただいていました。そのころから徐々に交流が増えていったんですね。坂田明さん(註4)や仙波さんたちのインド・ツアーに一緒に行ったこともありますし。でも、当時は自分が何をやっていいかわからない時期だったので、自分でもよく分からないままにやってて……でも、それをきっかけに自分が何をすべきか考えるようになったので、重要な時期だったとは思いますね」
註3:伊藤多喜雄 / 北海道苫小牧市生まれの民謡歌手。海外での活動を経て、1983年に電子楽器などを取り入れたTAKiO BANDを結成。木津はごく初期の同バンドに太鼓奏者として参加していた。
註4:坂田 明 / 70年代から活動を続けるサックス奏者。木津は坂田が主宰する微塵子空挺楽団の一員としてウズベキスタンやモンゴルをツアーした経験も。
メキシコツアー〈グルポ KIZUNA〉公演(2012年5月)
――以降、太鼓を叩きながら歌うという、民謡の世界ではオリジナルなスタイルで演奏活動を続けてきましたよね。そのスタイルはどうやって生まれたんでしょうか。
 「1997年にウズベキスタンのサマルカンドっていうところで行われた〈シャロク・タロナラル(東洋のメロディ−)〉っていう国際音楽祭に出たんですね。でも、ひとりで行かなくちゃいけなくなって、仕方ないから太鼓を担いでひとりで歌ったんです。民族音楽って基本的にどこの国のものでも声とリズムが中心にあると思うんですけど、それを表現するために“唄と太鼓”というスタイルは最適だったんです」
――そのウズベキスタンの音楽祭はいかがでした?
 「ウズベキスタンはイスラム圏の国なので、女性が太鼓を叩くということ自体が珍しかったみたいで、お客さんの反応もすごかった。〈江差追分〉(註5)とか〈とぅばらーま〉(註6)みたいな朗々とした歌でも拍手がワーッと起こるんですよ」
註5:江差追分 / 北海道を代表する民謡のひとつ。新潟の「越後松坂」の発展系とする説もある。
註6:とぅばらーま / 沖縄・八重山地方の民謡。本来は男女の掛け合いで歌われていたもの。
中央アジアウズベキスタン・トルクメニスタンツアー
Ryuz公演(2011年8月)
――ウズベキスタンの人たちには木津さんが歌う民謡はどういうふうに聞こえたんでしょうね?
 「きっとウズベキスタンの民謡と同じように聞こえたんだと思います。ウズベキスタンの歌姫も出てたんですけど、彼女の唄もモロに〈江差追分〉みたいだったし。その音楽祭には各国のすごい歌い手さんたちが集まってて、“ここで死んでもいい”と思えたぐらいすごい体験でしたね。そういう場で歌って、しかもいい反応をもらえたんで、このスタイルで行こう!と決められたんだと思います。“太鼓を打ちながら民謡をうたう”というスタイルで」
――日本人が民謡を聴くとき、“日本人のDNAが揺さぶられる”なんて表現をされることがあるじゃないですか。僕はあの表現にものすごく違和感があるんです。“日本人のDNA”なんて曖昧なものが揺さぶられるんじゃなくて、何人だろうと揺さぶられるものは揺さぶられるんじゃないかと。
 「うん、わかるわかる。ウズベキスタンだと、日本でも拍手されないようなところで熱狂的な反応をもらえたこともありましたね」
――たとえば?
 「コブシを回すときに少し技を使って、下がった節なんかを入れて複雑なコブシにするんですね。そうすると“ウオーッ!”ってものすごい反応がくる(笑)。キルギスにせよカザフスタンにせよ、そういう反応は中央アジアに共通してるかもしれない。三味線を“ベベン!”と弾いただけで“ウオーッ!”って(笑)」
――わはは、それはすごいですね。
 「去年、ボルネオのタワウというところで行われたフェスで歌ったときもそういう反応があったし、南米のブエノスアイレスとかでも」〈八丈太鼓囃子〉をやったら拍手が鳴りやまなくて……そうだ、以前アイルランドのチーフタンズ(註7)が来日したとき、打ち上げに参加したことがあるんですよ。そこで〈越後松坂〉を歌ったら、チーフタンズと一緒に来てたドーナル・ラニーさん(註8)が涙を流しながら英国式のキスをしてくれてね……」
註7:チーフタンズ / 1960年代初頭にアイルランドのダブリンで結成され、現在までアイリッシュ・トラッドを代表するグループとして活動を続けている。
註8:ドーナル・ラニー / プランクシティやボシー・バンドの一員としても活動してきたアイリッシュ・トラッドの重鎮。
――いい話ですねえ!
 「そうなの。そのチーフタンズの打ち上げでもコブシをグイッと回したら、やっぱり盛り上がりましたね。だからね、さっき大石さんが言ったみたいに、“日本人のDNA”が震えるんじゃなくて、何人だろうと、その人個人の感覚が震えるということなんだと思う」
ボルネオ・タワウツアー ソロ公演(2013年2月)
「(民謡に注目が集まっているのは)震災以降、“自分の土地の歌を見つめてみたい”というみんなの思いが少しずつ繋がってきてるということなんだと思います」
『SHIGERI BUSHI』
――今回のアルバム『SHIGERI BUSHI』に話を移したいんですが、ソロとしては2009年のミニ・アルバム『JAPANSE VOICE』があり、津軽民謡の重鎮である澤田勝秋さんとのユニット、つるとかめ(註9)でも3枚のアルバムを作っているものの、木津さんご自身のフル・アルバムとしては今回の『SHIGERI BUSHI』が初めてのアルバムとなりますね。
註9:つるとかめ / このユニットでは2002年の『つるとかめ』、2003年の『つるとかめII あいのかぜ』、2007年の『しゃっきとせ』という3枚のアルバムをリリースしている。
 「そうですね。去年の年末、リミニ・プロトコルっていうドイツの劇団の東京公演で青柳拓次さんが音楽監督をやって、私や大島保克さん(註10)も出たんですね。そのときに保克が“ねえさん、CD作ってよ! 俺、曲を書くから!”って言ってくれて。そうしたら、そこにいた青柳さんも“やりましょうよ!”って言ってくれて。それで青柳さんのプロデュースでアルバムを作ろう、という話になったんです」
註10:大島保克 / 沖縄県・石垣島は白保出身の唄者。1993年のデビューと前後した時期から木津との交流が始まり、現在までたびたび競演を行っている。
――青柳さんの2010年作『まわし飲み』(註11)にも木津さんは参加されてましたし、青柳さんの民謡の先生もやってたんですよね?
註11:まわし飲み / “日本”をテーマのひとつとして制作された青柳のソロ・アルバム。木津は太鼓や唄で参加。
 「そうなんです。青柳さんのことは初めて会ったときから“この人、フツーじゃない”と思ってましたね(笑)。“マイクを使わないで声を出せるようになりたい”ということで民謡のお稽古をやらせていただいたんですけど、声が太くなってずいぶん変わりましたよね。沖縄では車の中で海に向かって大声で民謡を歌ってるって言ってましたよ(笑)」
――青柳さんからは今回のアルバムに関してどういう話があったんですか。
 「“木津さんが今まで歩んできた音楽人生を全部肯定できるアルバムを作りましょう”って言ってくれて……その言葉に涙してしまって。選曲も基本的には青柳さんにお任せしたんですけど、びっくりした曲もありましたね」
――たとえば?
 「たとえば、〈道南ナット節〉(註12)とか。民謡の人はフツーに歌う曲ですけど、“これ、おもしろくなるのかな?”とは思いました。澤田師匠も(津軽訛りで)“えっ、ナット節? ナット節でいいの?”って(笑)。でも、アレンジしたものを聴いてみたら“なるほど!”っていう」
註12:道南ナット節 / もともとは千島や樺太の人足の間で歌われていた労働歌で、現在は北海道を代表する民謡のひとつとされている。
(左から)サンデー / 伊賀航 / 大島保克 / 木津茂里 / 青柳拓次 / 東江厚史(イガルースタジオ・エンジニア)。
――ベーシックは沖縄のコザのスタジオでレコーディングされたんですよね?
 「そうですね。青柳さんが沖縄在住ということもあったんですけど、最初の段階から“レコーディングは東京じゃない場所のほうがいいんじゃないか”っていう話は上がっていて。そんななかで、つるとかめの公演で沖縄に行くっていう話が出てきて、いいタイミングだなと。……沖縄ではずいぶん昔、普久原恒勇先生(註13)のマルフク・レコードで録音したことがあるんですよ」
註13:普久原恒勇 / 「芭蕉布」や「娘ジントーヨー」で知られる沖縄の大作曲家。自身のマルフク・レコードからは沖縄民謡の傑作を数多くリリースしている。
――へえ、それは初耳です。
 「中学生のころ、ヤマトの民謡の若手で“じんじん”(註14)というグループを組んでいたことがあって、普久原恒勇先生のところでレコーディングしたことがあるんです。そのグループではヤマトや沖縄の民謡も歌ってました。……シークレット系の過去の話だけど(笑)」
註14:じんじん / 82年のシングル「あほだらサンバ / ララバイおけさ」(共に作曲は普久原恒勇)などをリリースしていた男女混合民謡グループ。
――では、そのころから沖縄の民謡には触れていたということですね。
 「そうなんですよ。大島保克はウチの父親の呑み仲間でもありますし(笑)」
――ただ、ヤマトと沖縄の民謡界の交流ってそんなに盛んじゃないですよね。実際、木津さんのように沖縄の歌を歌うヤマトの民謡歌手ってあまりいないですし。
 「少ないですよね。私の場合、大島保克や新良幸人(註15)っていう素晴らしい唄者と出会えたこと自体幸運だったんだと思う。彼らは昔、八重山の同郷の人たちと“ゆらてぃく組”っていう民謡クラブをやってたんですけど、そのライヴを観て衝撃を受けたんです。みんなが歌って踊って……これをヤマトにもできないんだろうか?という思いが沸々と沸き上がってきて。彼らと会ってなかったら、私もきっと煮詰まっちゃってたと思う」
註15:新良幸人 / 大島保克同様、沖縄県・石垣島は白保出身の唄者。1993年結成のパーシャクラブではメイン・ヴォーカルも務める。
――彼らから刺激を受けつつ、共有していた感覚もあるんじゃないですか。
 「ありますね。彼らは自分たちの島の唄を大事にしてますし、保克は魚沼の〈越後松坂〉の名人にも会ってくれています。今回保克が書き下ろしてくれた〈十日の村に〉という曲は、ウチの父親が山奥で炭焼きをしている風景を彼なりの表現で描いてくれたんです」
――個人的にグッときたのは、木津さんのライヴの定番曲でもある「八丈太鼓囃子」(註16)。これ、太鼓の低音がものすごいですよね。
註16:八丈太鼓囃子 / 伊豆諸島に属する東京都の島、八丈島に伝わる歌・囃子。島では古くから盆踊りや祝い事の席で打ち鳴らされた。
 「そこはやっぱり(マスタリングを手がけた)久保田麻琴さんの匠技ですね! 久保田さんがどれだけ音楽を愛しているのかヒシヒシと伝わってきて涙が止まらなくなっちゃった。〈八丈太鼓囃子〉はサンデー(註17)が太鼓を叩いてくれたんですけど、大好きな太鼓奏者なので嬉しかった。彼の太鼓は本当に素晴らしいんですよ」
註17:サンデー / 本名・仲宗根哲。大阪出身の打楽器奏者。新良幸人と共にパーシャクラブのメンバーとしても活動している。
――細野晴臣さんもご自身の書き下ろし曲である「SHIGERI BUSHI」と、木津さんのライヴの定番曲でもある「幸せハッピー」(註18)に参加されていて。
註18:幸せハッピー / 作詞・忌野清志郎、作曲・細野晴臣。2005年に坂本冬美のシングル「Oh, My Love 〜ラジオから愛のうた〜」のカップリング曲としてリリース。細野が“細野晴臣&ザ・ワールド・シャイネス”名義で発表した2007年作『FLYING SAUCER 1947』には木津がヴォーカルを取ったヴァージョンも収録されている。
 「この2曲はアレンジも細野さんです。〈SHIGERI BUSHI〉はベースから何から全部細野さんがご自身で演奏したものを録音してくれて、ミックスまでやってくれました。感謝の気持ちでいっぱいです。〈幸せハッピー〉は、ライヴに来てくれたお客さんによく“〈幸せハッピー〉が入ってるCDってないんですか?”ってよく聞かれるので今回レコーディングしようと。細野さんにコーラスもお願いして歌ってもらっちゃいました」
スタジオにて細野晴臣と。
――「三味線ブギウギ」(註19)も青柳さんの選曲なんですか?
註19:三味線ブギウギ / 作詞・佐伯孝夫、作曲・服部良一による1949年の大ヒット曲。歌は市丸。
 「いや、これは私が以前からやりたかった曲で。あと、原曲の市丸姐さん(註20)にも興味があって。あの時代、新橋、浅草あたりの芸者さんが競い合ってたらしいんですね。芸がありながら美貌もあって……市丸姐さんの端唄もものすごく上手くて素晴らしいんです。凛としてて格好いい」
註20:市丸 / 浅草で人気芸者として名を馳せた後、1930年代からは芸者歌手として一世を風靡。戦後の一時期人気が低迷するものの、モダンな「三味線ブギウギ」で復活。1997年に90歳でこの世を去った。
――「炭坑節」と「東京音頭」という盆踊りの定番があえて入っていることも新鮮に感じました。
 「どちらも曲として大好きなんですよ。特に〈東京音頭〉。市丸姐さんが活躍していた時期の威勢がよかった東京とリンクするものがあって、“その時代の勢いがまた東京と日本にも戻ってきてほしい”という思いもあって今回録音しました。この歌、歌ってるとものすごく気持ちがいいんですよ。西條八十(註21)の歌詞も奇麗だし、メロディも洗練されてて」
註21:西條八十 / 1892年生まれの作詞家。「蘇州夜曲」や「王将」など数多くのヒット曲を残した。西條が手がけ、小唄勝太郎と三島一声の歌唱で知られる「東京音頭」は1933年のヒット曲。
――このアルバムをきっかけに民謡に初めて触れる方も多いと思うんですね。
 「青柳さんはまさにそのあたりを意識していたみたいですね。あとね、青柳さんはペルーのスサーナ・バカ(註22)のアルバムを参考にしてみて、と教えてくれた。トラッドと新しいものが奇麗に融合していて、そういうものを作りたかったと。青柳P、さすがなんですよ(笑)」
註22:スサーナ・バカ / アフロ・ペルー音楽を代表する歌手。デヴィッド・バーン(トーキング・ヘッズほか)のルアカ・ボップからも数枚の傑作を発表している。
――今後の活動に関してはどういうイメージを持っていらっしゃいます?
 「この前、〈幸せハッピー〉に踊りの振りをつけてみたら、すごく楽しくてね。それで〈SHIGERI BUSHI〉にも振り付けをしてもらったんです。そうやって盆踊りとリンクしていけたらと思うんですね。盆踊りって最近ブームになってますけど、無理なく踊れるから誰でも楽しめると思いますし」
――盆踊りが最近再評価されてるように、民謡に対する世間一般の捉え方も少しずつ変わってきてるような気がするんですよ。
 「だってね、民謡のアルバムを作ることできて、しかもこうやってインタビューしてもらえている状況が私としては信じられないわけですよ(笑)」
――では、なぜ民謡に注目が集まってるんだと思いますか?
 「震災以降、“自分の土地の歌を見つめてみたい”というみんなの思いが少しずつ繋がってきてるということなんだと思います。あと、欧米文化一辺倒だった時期から一巡して、みなさん自分の足元のものに気付き始めたということでもあるんでしょうね。本当に嬉しいですよ。かつてひとりで悩んでいた時期のことを考えると……こういう時がくるんだなあって」
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