大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第6回:中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)
掲載日:2012年11月28日
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 大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第6回:中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)

中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)
『銀河のほとり、路上の花』[Trailer]

 民謡など日本のルーツ・ミュージックを消化吸収して独自のサウンドを作り上げた先駆者として、ソウル・フラワー・ユニオンの名前を挙げる方も多いことだろう。そのフロントマンである中川敬が2枚目のソロ・アルバム『銀河のほとり、路上の花』を完成。新曲やセルフ・リメイクのほか、二階堂和美高田渡のカヴァー、そしてハワイの日系人の間で受け継がれてきた「ホレホレ節」のリメイクも含む、実に彼らしい内容の一枚となった。中川いわく「最初はモータウンやドアーズをひたすら速くしたような音楽をやろうと思ってた」というニューエスト・モデルから、93年のソウル・フラワー・ユニオンへの移行、阪神淡路大震災の被災地慰問から生まれたソウル・フラワー・モノノケ・サミットまで、“民謡”をキーワードに多岐にわたって話を訊いた。


日本の民謡は、家出したいと思っていた若衆にとってはまさに故郷そのものなわけであって。“ここから飛び出したい”と思ってロックを聴いてたわけやから
――80年代、中川さんは民謡をどのように捉えてたんですか。
 「まったく耳に入らへんものやったね。これは、おじいちゃん、おばあちゃんが聴くものだろうと。80年代はパンク、ニューウェイヴ、ブルース、ソウル、そんな感じよね、俺の場合。ただ、俺は十代の頃、ローリング・ストーンズとかクラッシュみたいなルーツ主義なバンドが好きやったから、“今の音楽と古い音楽との切り結びみたいなことはある種必然なんやろうな”という漠然とした捉え方はあった。一種の作法みたいなものとしてね。ただ、日本の民謡は、家出したいと思っていた若衆にとってはまさに故郷そのものなわけであって。“ここから飛び出したい”と思ってロックを聴いてたわけやから、民謡はまさに“ここ”という感じやったよね。NHKの民謡番組を観て、わくわくするということはなかった(笑)」
――それが興味を持ち始めたのは?
 「80年代後半、ワールド・ミュージックっていうキーワードが『ミュージックマガジン』あたりから出てきて、英米ロック以外の音楽に対する敷居が低くなりはじめた上に、外資系のレコードショップが増えて、世界のネイティヴな記録音源が入手しやすくなったということがあった。そんな中、英米のロック・ミュージシャンがさりげなく古いルーツ・ミュージックを取り入れるその構造自体に興味がいく。ストーンズからブルース、ディランからマウンテン・バラッド、ペンタングルからトラッド、みたいに。ヴァン・モリソンチーフタンズの『Irish Heartbeat』とポーグス『堕ちた天使』(If I Should Fall From Grace With God)は同じ時期やったと思うけど(共に88年リリース)、あの2枚はそんな時期の俺にとって実にジャストなアルバムで。で、やっぱり同時期、ネーネーズりんけんバンド喜納昌吉&チャンプルーズ(注1)あたりの沖縄のバンドが注目されはじめて。92年、ニューエスト・モデルとチャンプルーズの対バンの話がきてね(注2)。一緒にやってみたら、その頃のチャンプルーズ、いい具合に演奏が壊れてる(笑)。“なんやねんこれは!”と。言ってみれば、ミュージシャンになってからの民謡再会の入り口はそこやったね」
注1:喜納昌吉&チャンプルーズ/「ハイサイおじさん」や「花〜すべての人の心に花を〜」で知られるウチナー・ポップの先駆者。
注2:ニューエスト・モデルとチャンプルーズの対バン/92年9月22日、川崎クラブチッタ。
――“壊れてる”というのは、英米ロックを聴いてきた中川さんにとってはチャンプルーズのリズムにあった土着性が“壊れてる”と感じられた?
 「いやいや、そうじゃない。英米のロック・ミュージシャンの演奏から感じ取ってたアナーキーなトラッド解釈と同じ匂いを嗅いだんよね。これは博物館に入れられている民謡とは違うもんや、という。日本列島のルーツ・ミュージックに興味はあったけど、聴くものがないと思ってた。“格好いい”と思えるものはないやろうと。今でこそ、日本列島の土着文化を取り入れた表現なんて山のようにあるけど、当時はほんと、ある種腫れ物にさわるような雰囲気すらあったからね。俺の場合、“入り口”は沖縄とアイルランドやった」
――以前、他の方のインタヴューで“昭和天皇が亡くなった89年以降から日本ってなんやねんと考えるようになった”という主旨のことをおっしゃってましたよね。
 「ひとつの大きな契機やった。ただ、自分はミュージシャンやし、なによりも音楽が好きやから、“日本ってなんやねん”という切り口も音楽からじゃないとイヤやった。盟友・伊丹英子も違う視点からそういう感覚を持ちはじめた頃で、彼女はアイヌの生活文化に興味を持つようになって、俺は沖縄に興味を持って、メンバーと一緒に盛り上がっていった感じやったね。24〜5の頃やから、まあ高揚するよね。 “発見した!民謡!”みたいな……全然発見じゃないんやけど(笑)、若さならではの高揚やね。あの頃の『ROCKIN'ON JAPAN』のインタヴューとか読むと呆れるね。せっかくの表紙、大特集やのに、なんか民謡の話ばっかりしてる(笑)」

『ワタツミ・ヤマツミ』

――今の僕はそれに近い状態です(笑)。
 「盛り上がるよね(笑)。三線を買ったのもその頃で、ウチナーンチュと呑んでは“ヤマトンチュは自分のルーツをまったく分かってない”とか言われてムカッときたり(笑)。で、キングやテイチク、コロンビアの民謡コンピレーションを片っ端から聞きまくったり…。ニューエスト・モデルを解散させてソウル・フラワー・ユニオンを始めたばっかりの時期で、徐々に“ちょっと民謡もやってみようか?”という話にもなってくる。確か『ワタツミ・ヤマツミ』(注3)のツアーでは〈貝殻節〉(注4)、〈牛深ハイヤ節〉(注5)、〈こきりこ節〉(注6)あたりを演ってる。寿町フリーコンサート(注7)に出たときも、ほぼ全曲民謡。まだ(ソウル・フラワー)モノノケ・サミットが立ち上がる前、ソウル・フラワー・ユニオンでエレクトリックに民謡を演ってる時期があるね」
注3:ワタツミ・ヤマツミ/94年10月に発売されたソウル・フラワー・ユニオンのセカンド・アルバム。
注4:貝殻節/鳥取県気高郡(現在は鳥取市に編入)でイタヤ貝を取る漁師たちの間で歌われていた労働歌。山陰地方を代表する民謡。
注5:牛深ハイヤ節/熊本県天草市牛深の酒盛り唄。奄美の“六調”をルーツとし、阿波おどりや全国のハイヤ節など多くの派生曲を生んだ。
注6:こきりこ節/富山県南砺市の古謡。現存する民謡のなかで日本で一番古いものとされている。
注7:寿町フリーコンサート/日本三大寄せ場のひとつである横浜の寿町で79年から行われているフリーコンサート。民謡を連発したのは、94年8月13日の出演時。
――へえ、それは知りませんでした。
 「特に〈牛深ハイヤ節〉のビートが大好きでね。沖縄のカチャーシーよりもストンと自分の中に入ってくるというか。奄美の六調にしても阿波おどりにしても源流は一緒やけど、なかでも〈牛深ハイヤ節〉は“コレや!”っていう感覚があったな」
――「牛深ハイヤ節」はちょっとポーグス的なところがありますよね。突進力があって。
 「そうそう。牛深、世界の中心なんじゃない?(笑)ただ、当時の音楽ジャーナリズムでの付き合いの中では、いくら民謡をやっても全然理解してもらえない(笑)。当然ファンも戸惑う。つい最近までファンクやってたのに、いきなり民謡やからね」
――ヤマトの唄に出会ったとき、それまでやってこられたファンクやロックとの違いに戸惑うことはなかったんですか?
 「不思議なことに、むしろその段階では、それまで聴いてきたものと近いものを聴いてるっていう感覚になってたね。カントリー・ブルース、マウンテン・バラッド、ナイヤビンギなんかと似た感覚っていうか。93〜94年頃には“世界中のネイティヴな音楽を聴くのは当たり前のこと”っていう感じになってたから、日本列島の民謡もそのうちのひとつっていう感覚。加えて、子供のころ、テレビからは民謡が流れてたし、盆踊りもあった。“別にそんなに遠いものじゃないやん?自分の体内にあるわ、民謡のこの感じ”っていう」
なによりも歌ってみて、民謡の良さが分かったよね。“なんでこんなにすんなり歌えるんやろ?”って。それは、“日本人だから”とかいう軽い話じゃなくて、自分の母語と生活のなかにあるリズムの関係性の話やね
――現在まで繋がる流れのなかで大きかったのは95年の阪神淡路大震災と、被災地を巡ることになったソウル・フラワー・モノノノケ・サミットでの活動ですね。
 「そうやね。阪神淡路大震災のちょっと前から三線で遊んではいた。壮士演歌(注8)のSP盤コンピレーションを聴いたり、添田唖蝉坊(注9)関連の音源を聴いたり。だから、民謡のみならず、日本列島の先人たち、歌舞音曲にたずさわった芸人たちが何をやってきたのか、全般的に興味を持つようになってた。端唄、寮歌、唱歌、お座敷唄、大道芸…。で、自分でも三線を持って歌ったりし始めてた。今思い返してみると絶妙なタイミングやねんけど、阪神淡路大震災の2ヵ月前ぐらいから、三線で民謡とか壮士演歌の練習をし始めてるんよね」
注8:壮士演歌/明治時代に流行した風刺歌。自由民権運動の壮士たちを中心に歌われた。体勢批判とユーモアが織り込まれた明治時代のレベル・ミュージック。
注9:添田唖蝉坊/明治〜大正の演歌師。ソウル・フラワー・モノノケ・サミットがカヴァーした「ラッパ節」や「むらさき節」の原曲歌手。
――へえ!
 「遊びのひとつとして、モーダルな民謡にコードを付けてみたり、そういうことをやりはじめてた。そんな最中に阪神淡路大震災が起こって……伊丹英子が“被災地に歌いにいかへん?”って言い出して。“その内、避難所のおじいちゃん・おばあちゃんがもっとしんどい時期がやってくるやろうし、せっかく私ら、民謡とか好きやねんから、そういう古い歌を歌いにいかへん?”ってね。メンバーのなかには腰が引けてるのもいたけど、俺と伊丹英子はなんか行く気まんまんで(笑)」
――中川さんのなかに不安みたいなものはなかったんですか?
 「もともと寄せ場とかでライヴをするようなバンドではあったから、そのへんのロックバンドよりはスッと入っていけたとは思うけど、ただ、被災地の凄惨な状況をテレビで観てるからね…。しかもこれは震災から1週間後ぐらいの話であって。“あそこに行って歌うのか!”っていう不安に似た感情は当初あったよね。ただ、“もうこうなったら、この機会に俺も民謡を歌いまくろう!”っていう思いもあって。被災地出前ライヴが決まってからは、とにかくひたすら猛練習。非常時ではあるけど、やっぱりミュージシャン、コード進行や構成にもそうとうこだわったりして。凝りすぎたらおじいちゃん、おばあちゃんは入りにくくなるから、ある種ラモーンズ的金太郎飴的な方向性がいいやろう、とか。どこで切ってもラモーンズ、どこで切ってもモノノケ・サミット(笑)。アカデミックなアレンジは避けよう、とか」
――最初から「安里屋ユンタ」や「てぃんさぐぬ花」のような沖縄の歌をレパートリーにしていたのは、被災地に沖縄の方が多かったからなんですか。「アリラン」(注10)も早い段階からやっていたそうですが、在日の方が多い地域もありますよね。
注10:アリラン/朝鮮半島を代表する民謡。
 「あそこまでの大都市自然災害は久しぶりやったから、やっぱり関東大震災時の排外主義的なことは頭によぎったね。朝鮮民謡、沖縄民謡、アイヌ民謡の3つは絶対に入れなあかんというのは初めからあった。〈アリラン〉とアイヌ民謡の〈アランペニ〉は最初から演ってたな。〈アランペニ〉はメロディーが好きでね、〈貝殻節〉とメドレーにして演ってた」
――「貝殻節」と「アランペニ」はメロディ・ラインが似ていたりして、不思議な感じがしますよね。
 「発声の“粘り”も似てたり。“これ、近いで?”って話は当時からしてた。……少し話は飛ぶけど、随分前に古本屋で70年代の音楽雑誌があったから立ち読みしてたら、某著名音楽評論家が“外タレのライヴなのに、なんで日本の観客は一拍目に手拍子を入れるんだ。西洋のビートに合わせて二拍・四拍に手拍子を入れよう!”って書いてるわけ(笑)」
――それ、凄いですねえ(笑)。
 「60〜70年代はそういう感じやったんやろうね。それまでは(モミ手をしながら)一拍・三拍で打ってたわけやん。それを“二・四で入れよう”と布教していったわけでね。例えば俺のライヴでも、都市部では(〈満月の夕〉を歌いながら、二拍・四拍で手拍子を打ってみせる)……こうきてしまうんやけど、地方の年配の人なんかは今でも、促すまでもなくちゃんと(モミ手を入れながら)一拍・三拍で手拍子を入れてくれる。俺にとってはこっちのほうが正しい〈満月の夕〉のビートやねんけど、都市部になればなるほど二拍・四拍になってくる。まあ、高度成長期あたりに分岐点があったんやろうね」
――60〜70年代に日本でロックやポップスを提唱していたミュージシャンの多くは、西欧のリズム感覚に自分をチューニングしていったわけですよね。そのなかで自分の中にあったリズム感を捨て去っていったと。
 「ある意味ね」
――ただ、中川さんはもともとブルースやロックを聴いていて、それから民謡に入っていったわけですよね。そのプロセスはアジアのリズム感覚を“取り戻していく”というものでもあった?
 「ただね……喋りながら思い出してきたんやけど、90年代半ば、こう思ったんよ。“俺、もしかしたらビートルズも一拍・三拍で聴いてたんちゃうか?”って。(モミ手で手拍子を打ちながら、民謡調に“In My Life”を歌う)“There are places I remember〜”て(笑)」
――ワハハ! なるほど!
 「子供のときからそう聴いてたような気がするんよね。俺は相当な歌謡曲少年やったし、俺が子供のころの歌謡界は俗謡的な唱法の歌手もまだ多かったからね。アイドル・ポップスにしても、70年代初期と80年代中頃ではリズムの取り方も歌の粘り方も全然違うから」
――子供のときに聴いていた歌謡曲のなかで民謡的なリズム感覚は養われていた、と。
 「うん、そういう部分は少なからずあったと思うよ。なによりも歌ってみて、民謡の良さが分かったよね。“なんでこんなにすんなり歌えるんやろ?”っていうのはあった。ピッチにしてもリズムにしても。それは、“日本人だから”とかいう軽い話じゃなくて、自分の母語と生活のなかにあるリズムの関係性の話やね。だから、日本語ヴァージョンの〈アリラン〉も歌いやすいなと思ったし、壮士演歌も歌いやすかった。歌い手としてはその世界にすっと入っていけたし、それは当初、自分で驚きでもあったな。まあ、記録音楽と違って、“そこ”で歌うために唄は作られたわけやから、あまりに当然な話なんやけどね」
――ただ、アイヌや沖縄の言葉は中川さんにとっても馴染みのないものだったわけですよね?
 「これは難しかったね。なにせパッと聴き、歌詞の意味が分からないから。俺が歌ってる沖縄民謡はヤマト言葉で作られたものが多いし、ウチナーの古い民謡に挑戦しようっていう気持ちもなくて。普段喋ってない英語でロックを演るのと同じで、ちょっとウソをついてるような気がしてくるんよね。嘉手苅林昌さんがずっとやってた〈海ぬチンボーラ〉をここ数年演ってんねんけど、完全なウチナーグチ。だから歌うために一言一言言葉の意味を身体に叩き込んだな。俺にとっては、当然のことながら、沖縄民謡やアイヌ民謡はハードルが高いよ。(大島)保克とか(新良)幸人みたいに上手いヤツら、OKIみたいに本気なヤツらがいるのに、俺みたいなヤマトのチンピラが掘り下げて演る必要もないでしょ(笑)」

『アジール・チンドン』

――95年末にはモノノケ・サミットのファースト・アルバム『アジール・チンドン』が出ますね。
 「俺、ソウル・フラワー・ユニオンの本当の意味でのファースト・アルバムは『アジール・チンドン』やと思ってるようなところがあって。阪神淡路大震災のあと、初めて作ったアルバムっていうこともあるし。あのときは同世代のミュージシャンがやってないことをやってるっていう高揚もあった。自分たちこそが切り開いてるっていう気分にあったというか。音楽業界の連中は“民謡”っていうだけでイヤがるし、これはやりがいがあるなあって。日本の民謡とロックの切り結びとしてイメージされるのって、それまでなら竜童組とか上々颱風あたりやったから、新しい世代のものとして示したいっていう気持ちもあった」

『エレクトロ・アジール・バップ』

――96年にはソウル・フラワー・ユニオンの『エレクトロ・アジール・バップ』(注11)が出ます。この頃には歌に対する感覚自体が大きく変わっていたわけですね。
注11:エレクトロ・アジール・バップ/96年10月に発売されたソウル・フラワー・ユニオンの3作目。「満月の夕」「海行かば 山行かば 踊るかばね」などの代表曲も収録した名作。
 「そうやね。95、96年だけで200回ぐらい出前ライヴをやったんよね、阪神地区界隈で。だから、避難所で歌ってるか、曲を作ってるかっていう2年間やった。当時は気づいてなかったけど、『ワタツミ・ヤマツミ』と『エレクトロ・アジール・バップ』は1年半ぐらいの間隔しか開いてないのに、ほとんど違うバンドになってる(笑)。特に〈海行かば 山行かば 踊るかばね〉はできた瞬間、“こんな曲、世界中探してもないぞ!”って自分でも誇らしく思ったね。今でもか(笑)。それと〈満月の夕〉。あの時期はアイリッシュ・トラッドと民謡が普通に自分自身のルーツ・ミュージックになりはじめてた頃でね。町を歩いてても“あ、牛深三度行きゃ三度裸、あ、それ!”って〈牛深ハイヤ節〉のフレーズを自然と口ずさむような人になりはじめてた(笑)。通りすがりのおねえちゃんに合いの手を入れて欲しい(笑)。だから、〈海ゆかば 山ゆかば 踊るかばね〉も自然とできたし、だからこそ“できた!”っていう喜びがあって。それまでは頭で考えてたところがあったというか」
――「牛深ハイヤ節」とアイリッシュ・トラッドを組み合わせたら「海ゆかば山ゆかば踊るかばね」になったわけじゃなくて、気づいたら「海ゆかば山ゆかば踊るかばね」のメロディとリズムがこぼれ落ちてきたというか。
 「まさに、そう。やってきた」
――以降はむしろ民謡を意識することなく、民謡的なフィーリングが出てくるようになってきた?
 「そうなっていくよね。民謡に対する知的好奇心のアウトプットはモノノケ・サミットでやればいいから、ソウル・フラワー・ユニオンのほうでは“研究”みたいなことはしなくてもいいと思うようになっていく。“自分のなかの歌謡性と最高のリズムが組み合わされば、それがソウル・フラワー・ユニオンの音楽”っていう確信を持てるようになっていく。それは今に続く感覚やね」
――中川さんのなかにある歌謡性をアウトプットしたとき、それが民謡的な形を取ることもあるわけですね。
 「最近の曲でも“この曲、民謡的ですね”とか言われて驚くことがある。こういうメロディ、唱法を民謡ぽいって思うねんなって。だから、自分のなかでは境界線が分からなくなってる」
(ソロ・アルバムは)その日に何を録りたいか、その気持ちをこそ大事にしようと。2011〜2012年の中川敬の日常が浮かび上がってこないかなっていうコンセプトやね

『街道筋の着地しないブルース』

――今回の新作『銀河のほとり、路上の花』のお話に移りたいんですが、ソロ・アルバムとしては前作『街道筋の着地しないブルース』より1年半ぶりですね。
 「『街道筋の着地しないブルース』の時は“とりあえず一作、ひとりで作ってみよう”っていう感じやった。ところが、俺、普段自分のアルバムってあんまり聴かないんやけど、あのアルバムは妙に聴くんよね。例えば東北までの長距離運転中にひとりで聴いて、自分でグッときたり(笑)。まあ、簡単に言うと、手応えがあった。やりたいことをやってる高揚があったんよね。だから、タイミングがあればすぐに次のアルバムを作ろうと思ってた」
――今回も新曲だけじゃなく、カヴァーやセルフ・リメイクもありますね。選曲はどうやって進めていったんですか。
 「前回のコンセプトを踏襲してるんやけど、その日に何を録りたいか、その気持ちをこそ大事にしようと。バンドの場合は10何曲、曲を作って、メンバーとアレンジをして、ある程度完成型を目指してレコーディングに入るようなところがある。ソロは、バンドとは全然違うことをしたいから、まったく先が見えないやり方でやりたいんよね。今作なら、最初はニューエスト・モデルのセルフ・カヴァー〈もぐらと祭〉から取りかかって、ニカちゃん(二階堂和美)と一緒にツアーを回ったあと、“じゃあ、今度はニカちゃんの〈女はつらいよ〉を録ろう”みたいな感じで進めていった。そういうやり方を選ぶことによって、2011〜2012年の中川敬の日常が浮かび上がってこないかなっていうコンセプトやね」
――いま名前が出た二階堂さんの歌には中川さんも惚れ込んでいらっしゃるんですよね。
 「愛してる(笑)。元々ファンやねんけど、去年の『にじみ』があまりにも素晴らしくて。彼女はシンガーとしてはもちろん、ソングライターとしても素晴らしい。このレベルで俺にこう思わしてくれた人って、どんとボ・ガンボス)以来かも」
――おおー。
 「去年は、3.11以降、なんか人の音楽を聴く気にならなかったんやけど、ジョニ・ミッチェルと二階堂和美だけはストンと胸に落ちる。それで今年の2月と8月に、ようやく一緒のツアーが実現して…。“女はつらいよ”は本当、名曲やね」
――あと、本連載的には「ホレホレ節」(注12)のカヴァーのお話を聞かないと。
注12:ホレホレ節/明治中期から仕事を求めてハワイへと渡っていった日系人の間で歌われていた労働歌。刈り取られたサトウキビの葉を剥がす作業をハワイ語で「ホレホレ」と言う。
 「2009年、〈ホレホレ節〉を伝承しているハワイのシンガー、アリソン・アラカワさん(注13)と、沖縄の大工(哲弘)さん、モノノケ・サミットで、〈ホレホレ節〉のイヴェントがあって(注14)。そのとき、3者ともに〈ホレホレ節〉を演ることになったから、俺らもソウル・フラワー流にアレンジして。その後、モノノケ・サミットのレパートリーになって、来たるべきモノノケ・サミットのアルバムに入れるやろうとは思ってたんやけど……ま、フライングして録りたくなってしまった(笑)。外部の力によって移動を余儀なくされた人たちの唄。今作のテーマでもあったし……」
注13:アリソン・アラカワ/ハワイ出身の沖縄四世。彼女の活躍により、“ホレホレ節”再評価の気運が日本/ハワイで広がっていった。
注14:ホレホレ節のイヴェント/2009年7月に行われた〈海を渡った移民ソング 桃源郷(ユートピア)へ〜ハワイ生まれの日本民謡「ホレホレ節」〉。
――ソウル・フラワー・ユニオンでもやっていたビクトル・ハラのカヴァー「平和に生きる権利」のほか、高田渡さんの「生活の柄」も収録されてますね。
 「昔から好きな曲でね。95年以降、大工さんがレコーディングしたり、いろんな人がカヴァーしてて。それで“まあ、俺がやらなくても”とか思ってたんやけど、ふと“あんなに好きな曲やのに、俺、まだ録ってないわ”って思い出して(笑)。あと、今回の全体のトーンとも繋がると思った。やっぱり、“家”“故郷”から切り離された人間の唄ということやね」

『銀河のほとり,路上の花』

――曲を並べていったらそのテーマが浮かび上がってきた?
 「ここ1年半、レコーディングとライヴの時以外、頭と身体は常に東北にあったから、どうしてもそこに行き着いてしまう。〈海へゆく〉〈そら〜この空はあの空につながっている〉〈潮の路〉あたりはちょっとエピソードがあって(注:前2曲はソウル・フラワー・ユニオンのリメイク、〈潮の路〉は中川のソロ・ユニット、ソウルシャリスト・エスケイプのリメイク)。震災前まで、東北は1、2年に1回、仙台にライヴをしにいくという、いわば一地方都市のイメージになってた。で、今回、初めて三陸海岸の町々に行ってみると、ニューエスト時代からのファンがたくさんいた。自分も被災しているのにもかかわらず、遠い避難所までわざわざ出前ライヴを観にきてくれる。被災した人が“津波のあと、頭のなかで〈そら〉が鳴ってたんです”“復旧作業の時、泣きながら〈海へゆく〉を歌ってました”とか…。それで次のアコースティック・アルバムを作るときは〈そら〉〈海へゆく〉〈潮の路〉あたりは絶対録ろうと思ってた。自分のなかで今の唄になったというか、新たな意味が書き加えられた曲たちやねんな」
――なるほど。そういえば……以前中川さんから「俗謡、土俗のリズムとの切り結びにこそ、西洋被植民地圏の音楽の明日がある」というメールをいただいたことがありましたよね。あの言葉がずっと頭の中に残ってるんです。
 「(笑)。ニューエスト・モデルの頃、ビリー・ブラッグと対談した時に、“なんで日本の音楽はこんなにアメリカナイズされてるんだ?”とか言うわけ。まあ、俺も“お前ら、なんでコロンブス、マゼラン以降、土足でズカズカとこっち来るようになってんや?”とか思うわけやけど(笑)。ま、そのころから“自分たちのリズムはどこにある?”っていうテーマはあった。もちろん、国家単位のナショナリズムみたいな話じゃないし、復古主義みたいな話でもない。誇れるリズムがあって、その上で、自然な形で外来のものが混ざっていくという形でのハイブリッド。対等に一緒に酒を酌み交わすような雑種主義。戦後、昔のものをすべて“封建的”という言葉で切り捨て去ってきた歴史もあるし。実際、西洋が持ち込んだ多様な文化は魅力に溢れてたわけやしね」
――忘れさせられた歌、忘れさせられたリズムというものはいくらでもありますもんね。
 「そうやね。さっきも言ったように“なんでこんなにすんなり歌えるんやろう?”っていう唄がすぐそばにあるわけやん? 生活の中で、次世代に受け渡され続けた、“そこ”の唄。名もなき一人ひとりの、人生がへばりついた強靭な唄ども…。もったいないよね」
――民謡にしても基本的にはいい歌だから歌ってる、と。
 「入り口はそこ。いい唄やからこそ、強靭な旋律であるからこそ口承で残ってきたわけでもあるしね。在日関西人の俺は日本人でもあって、そんな俺が琉球の民謡を歌う、朝鮮の民謡を歌う、アイヌの民謡を歌うっていうとき、その唄の歴史が、無数の破顔とともに立ちのぼってくる。で、また自分の唄を、絞り出すように歌い始めるんやね」
[ソウル・フラワー・ユニオン / 中川敬 最新情報]

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