那倉悦生 「鏡を抜けて」 第7話「鏡を抜けて」

ENDON   2017/03/24掲載
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第7話 「鏡を抜けて」
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MA 「UNCLEAR COLLAPSE」 2016
キャンバスに油彩 直径914mm
ドッペルゲンガーにレイプされるという最悪な夢。サグなデブのジェルは飛び起きた。横には妻が横臥し、薄い寝息を立てている。昨晩は妻の属する素人劇団の芝居にいった。美貌にも演技力にも恵まれない妻は、動物の檻に入れられて、バイブレーターを突っ込まれたまま聖書を朗読していた。ありきたりな醜悪さの演出だった。開演の20分前に、120錠のブロンを摂取した。幕が開くと同時に、ジェルの緊張はみるみる緩和していった。間断的に震えと吐き気に見舞われたが、それももう慣れっこなのであった。舞台上ではかつて存在したことのない動物が人間を家畜化するというディストピア的な物語が展開していた。妻は飼いならされた未来の愛玩動物としての振る舞いを、下手糞なりになかなかうまく演じているように思えた。聖書はことごとく愚かな記号の束として扱われた。そこには強い反米意識を感じるべきだ、妻は帰りの電車でそう述べた。ジェルは氷結ストロングを黙って飲み干した。何も言い返す言葉が見つからなかった。息子を連れてこなくて本当に正解だった――これがいちばんの感想だった。息子は自慰行為に心底熱中している時期で、このような刺激的なイメージを受け取ってしまった場合、それをどう処理するかは火を見るよりも明らかだ。そんな息子のパンの代金を、ジェルはドラッグを売って稼ぐのだった。妻の演劇にかかる費用も、彼のハッスルの成果なのだ。ジェル自身は咳止めのオーバードーズと飲酒だけで生きていた。それで正気を保っていた。息子は学校に行かずに、四六時中、デジタル女性器を眺める。妻は家事もせず出かけて行っては、露悪的な演技の世界に夢中になっている。何もかもが絶望的に思えた。恋人時代は幸せだった。恋人は醜く太った姿形を恥じていて、精一杯の化粧とおしゃれをしていた。その行いが美しく、ジェルを惹いた。今では開き直って、よりグロテスクな表象へと、妻は自らをアレンジメントするようになってしまった。既存の美意識は徹底的にアメリカナイズドされた商品だから、醜いイメージを無限に生産することで、テロリズムを実行するのだと嘯いた。劇団のブレーンである脚本家は、どう見ても詐欺師にしか思えない風貌の持ち主だった。喉のあたりに“YOU”と入墨を刻んでいた。今では妻は、病気の鳥のように痩せ細っている。脚本家は葉巻を燻らせて、ジェルに挨拶をする。やあ兄弟!調子はどうだい!ジェルはこの男を畏怖していたので、ええ、とか、まあ、としか答えることができないのだった。そしてコカインを無料で提供する。脚本家は対価として、妻を演劇に出演させる。すべてが危ういバランスを保ちつつ、皮一枚のところで崩壊を免れながら運営されていた。これが社会というものだ。息子は未だ、社会を知らず、独りきりで性器を弄り続ける。むしろそのまま部屋から出ることなく、一生を過ごさせてやるのもいいかもしれない――ジェルは妻の寝顔を眺めながら、氷結のタブを引いた。足元には脚本家の右腕が落ちている。焼却するか海に捨てるか、いずれにせよ俺の犯罪は露見するだろう。ジェルはすべてのドラッグを宝箱に入れると息子の部屋に入り、彼の枕元にそれを置いた。部屋の入り口には大きな鏡が鎮座し、一組の貧しい親子を映し出している。父親は自らの四肢が欠損していることを知る。すべてがバラバラの、部分へと霧消していく。全体というものは無くなった。鏡の奥で妻が踊っている。拙いステップで、ワルツを。望郷とは異なる美しさが彼を捕えた。ジェルもまた、鏡の向こう側へ、入って行くべき時だ。
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