

女性ロッカーの元祖、スージー・クアトロが米国デトロイトに生まれる。父親がジャズ・ミュージシャンだったとのことで、幼い頃から音楽的環境には恵まれていたようだ。70年代初頭にジェフ・ベックを手掛けた敏腕マネージャー、ミッキー・モストの目に留まりデビュー。ベースを掻き鳴らし、ワイルドに唄う様は男勝りの迫力に溢れており、1stアルバムのとんでもない邦題『サディスティック・ロックの女王』も納得? 当時は日本でも大人気を博した姉御である。
モット・ザ・フープルでの活動で知られるシンガー、イアン・ハンターが英国オスウェストリーに生まれる。本名はイアン・ハンター・パターソン。彼の音楽キャリアがスタートしたのは、とあるホリデイ・キャンプで、バンドをやっていた2人の人間と偶然出会ったことがきっかけだったという。50年代後半から本格的にミュージシャンとして活動し、数々の苦難を乗り越え、モットで成功したのは70年代。決して上手いシンガーではないが、いかにも英国的な声を持っている。
20世紀のギター音楽の土台を築いたスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアがマドリード市内で死去。94歳だった。ギターを愛し、愛好家たちへの指導も惜しまなかったスペインの国民的英雄は、14歳で初舞台を経験。さまざまなクラシック曲をギター用に編曲する発想は“ルネサンス”とまで呼ばれていた。初来日は“ギターの黒船が襲来”と称され、後の昭和の大作曲家、故古賀政男も大いに影響を受けたという。

多くのミュージシャンに愛され続けたシカゴ・ソウルの重鎮、カーティス・メイフィールド、シカゴに生まれる。独特のハイテナー・ボイスと、ラブ・ソングやメッセージ・ソングの書き手として常に観客を魅了し、'70年代のニュー・ソウル運動の中心人物となったカーティス。しかし'90年8月、リハーサル中に照明が落下し、半身不随の重傷という悲劇が発生。一時は音楽活動を停止するも、'96年にカム・バック。その後'99年の他界直前まで、ラブ&ピースを忘れなかったカーティスを慕うミュージシャンは今でも多い。
中学時代は「ミス・原宿」に選ばれた経歴をもつ嶺川貴子が誕生。大学時代に音楽に目覚め、デュオのメンバーとして活動開始。彼女が知られるようになるのは、コーラス参加をきっかけに加入したL-Rからだろう。紅一点として、ファースト・アルバムの『Lefty in the Right〜左利きの真実』から参加。'94年に脱退し、翌年にソロ・デビュー。コーネリアス(小山田圭吾)によるプロデュース作も記憶に新しく、その後、彼の夫人に。なおL-Rは、彼女の脱退後の'95年5月「KOCKIN' ON YOUR DOOR」で大ブレイクを果たした。


午前中のフォト・セッションの最中、リンゴが体調不良を訴え病院に向かうと、扁桃腺炎の悪化のために入院を余儀なくされた。そのため、翌日からのツアーにリンゴは参加不可能となり、急遽セッション・ドラマーのジミー・ニコルが呼ばれた。この日の予定は変更され、ジミーを含めたリハーサルを行ない、午後5時半からジョン、ポール、ジョージの3人はデモ・テープ制作を開始。67年に発売されたアルバム『サージェント・ペパーズ・・・』に収録されている「ゲッティング・ベター」は、ジミーがこのワールド・ツアーの最中に発した言葉「だんだんよくなってくるよ」がきっかけのひとつとなって作られている。ちなみにジミーは66年、スプートニクスのメンバーとして来日を果たしている。