

トッド・ラングレンが米国ペンシルヴァニア州に生まれる。ユートピアを率いてプログレを演ってみたかと思えば、ソロでは美しいメロディを紡ぎ、プロデューサーとしてXTC、ザ・バンド、高野寛まで手掛けるなど、その才能は底なし。彼がナッズの一員としてデビュー・アルバム『ナッズ』をリリースしたのが1968年、20歳の時だから、同作で聴ける独特のポップ感は10代ですでに開花していたということだろう。天才はやっぱり違うね。

「地雷ZEROキャンペーンソング」にも参加していたシンディ・ローパー、病院に向かう途中のタクシーの中で誕生。「ハイ・スクールはダンステリア」などが大ヒットし、その独特のキッチュな歌声で世界を席巻する。歌だけでなくさまざまなチャリティー活動に参加する歌姫は大のプロレス好きでもあり、売れ始めの頃はよくテレビの中継などにも出演していたという。また、日本では正月の『オールスターものマネ紅白歌合戦』に飛び入りするなどサービス精神も発揮。
斉藤和義、栃木県に生まれる。小学校6年の時に母親が買ってくれたアコギが彼の人生を変え、21歳で大学中退、上京。しかしまったく売り込みをせず、しびれを切らした姉の一言で、TVのコンテストに出場。'93年「僕の見たビートルズはTVの中」でデビュー。その後、爆発的なヒットはないが、『ポンキッキーズ』の挿入歌「歩いて帰ろう」などでその才能は実証済み。

撮影監督の篠田昇が逝去。『リリイ・シュシュのすべて』『花とアリス』などで見られる美しい映像は彼の手によるもの。ハンディ・カムを用いた手法を取り入れたり、スチールカメラのレンズをムービーカメラに使用するなど、撮影技術向上に全身全霊を傾けた。岩井俊二監督の映画には欠かすことのできない人物だっただけに、“岩井美学”と呼ばれた映像美が今後どう変わっていくのか、気になるところである。
アバーバッハ音楽出版のヨーロッパ担当ディレクターだったアルフレッド・シャハトはトップ・テン・クラブを訪れると、シェリダンとビートルズの組み合わせに強く魅せられた。シャハトは友人である指揮者兼作曲家のベルト・ケンプフェルトと、ポリドールでのトニー・シェリダンのレコーディングにビートルズを呼んだらどうかともちかけた。ビートルズはケンプフェルトのオフィスに招かれ、レコーディングと音楽出版の契約をし、レコーディングに参加(スチュアート・サトクリフは演奏には参加していない)。シェリダンとともに「マイ・ボニー」「ザ・セインツ」「ホワイ」など5曲をレコーディング。ジョンがヴォーカルを務める「エイント・シー・スウィート」、ジョンとジョージの共作によるインスト「クライ・フォー・ア・シャドウ」の2曲をビートルズだけでレコーディングした。