

レインボーやホワイトスネイクなどで活躍、ヘヴィ・メタル/ハード・ロック界で最強と謳われたドラマー、コージー・パウエルが英国に生まれる。60年代半ばからミュージシャンとして活動し、頭角を現したのは71年にジェフ・ベック・グループに参加してから。独特の“タメ”を効かした重量感のあるドラミングは、聴けばすぐに彼とわかる個性を持っていた。チャイコフスキーの「1812年」を用いたドラム・ソロは伝説となっている。98年、自動車事故により死去。
歌手・女優のマリアンヌ・フェイスフルが英国ロンドンに生まれる。父親は英国軍士官にして大学教授、母親はハプスブルク家の血を引いているという。デビューのきっかけやミック・ジャガーとの関係はあまりにも有名であり、説明は不要だろう。かつては美声とブロンドの美貌が持ち味だったアイドルが、ドラッグ中毒を克服して復活した時、あの透き通るような声はもはやなかった。が、それが彼女の人生の凄みを感じさせ、別の意味で高い評価を得るのだった。
浜田省吾、広島県に生まれる。TVにはほとんど登場せずタイアップも滅多にないが、ライヴではどこの会場も満員。そんな浜田のトレードマークは、外さないことで有名なサングラス。が、松任谷由実のラジオにサングラスをとって出演したことがあり、ビックリしたユーミンの「Mr.マリックみたいですね」という言葉にいろいろ憶測が。25年の軌跡をたどるベスト・アルバム『The History of Shogo Hamada“Since 1975”』が、同時期発売だったビートルズのベスト盤『ザ・ビートルズ 1』を抑えてチャート1位を獲得するなど、その人気は絶大。
「赤とんぼ」「ペチカ」などの作曲家としても知られる山田耕筰、心筋梗塞のため79歳にて死去。音楽の教科書には、彼の作品が必ずといっていいほど載っているため、一般には作曲家としての知名度が高いが、それ以外の活動でも彼の功績は大きい。29歳の時、東京フィルハーモニー交響楽団を組織し、近衛秀麿と共にNHK交響楽団の前身である日本交響楽協会も設立。その後、31歳の時にはニューヨークのカーネギーホールで自作の管弦楽曲を演奏し、また音楽だけでなくドイツの画家カンディンスキーの絵を日本に初めて紹介したのも彼であった。
元ブランキー・ジェット・シティのVo,&G.浅井健一、愛知県に生まれる。テレビ番組『イカ天』の第6代グランドイカ天キングを獲得し、'91年『Red Guitar and The Truth』でメジャーデビュー。骨太なグルーヴと、少年のような切なさと暴力性を併せ持つヴォーカルが、1stにして圧倒的なオリジナリティを見せつけた。しかし、'00年の『ハーレム・ジェッツ』発表直後、電撃解散。解散後も、ブランキーと並行して続けていたシャーベッツ、そしてAJICO、ユダなど目まぐるしく活動を展開。彼がどこに辿り着くのか……いつまでも目が離せない。


ロンドン・ハマースミス・オデオンで行なわれたユニセフ主催の『カンボジア難民救済コンサート』にウィングスがトリで出演。このコンサートは、カンボジアの難民を救済するための資金集めを目的に、ワルトハイム国連事務局長氏とポールによって開催されたもの。このコンサートでは「ロケストラ」が披露され、ピート・タウンゼンド、ロバート・プラント、ジョン・ボーナムなどの豪華メンバーがステージ上に揃った。しかし、このコンサートが結果的にウィングスの最後のライヴとなってしまった。