

マイケル・ジャクソンのドキュメンタリー番組『Living with Michael Jackson』が、世界ではじめて英国で放送される。同国のジャーナリスト、マーティン・バシールによる独占インタビューを軸とするこの番組、極めて私的な部分にまで入り込んだ内容によって大きな反響を呼んだ。しかし、整形や子どもへの性的関心など、マイケルを異常であるかのような質問を強調した編集が物議を醸し、マイケル側がこれに反論する番組を制作するに至った。
ギタリストのリッチー・コッツェンが米国ペンシルバニアに生まれる。幼い頃から音楽に興味を持ち、5歳でピアノを、7歳でギターを手にする。当時、触発されたのはキッスだった。“速弾きギタリスト”としてデビューした頃の彼はまだ10代。その後、徐々に自らのルーツであるブルース/ソウル色を強めていき、ポイズンやMR.BIGでも活躍したのはご存知の通りだ。歌唱力も抜群で、ソウルフルな歌声とハンサムな顔立ちにより、女性ファンも多い。
バディ・ホリーらを乗せたチャーター機が墜落。1936年米テキサス州に生まれた彼は、「オー・ボーイ」「ペギー・スー」などヒット曲を連発。22歳にしてロック界の頂点へ登りつめた……が、悲劇は起きてしまった。グレン・ミラーやオーティス・レディングらとともに、飛行機事故による早すぎた死を惜しまれる一人である。セックス・アピールを全面に押し出していた当時のミュージシャンとは異なり、黒縁メガネの地味な人相。だが圧倒的に優れた楽曲を生み、ビートルズにストーンズなど、彼の影響を受けた偉人たちは数え切れない。
小西康陽が北海道に生まれる。'84年にピチカート・ファイヴを結成した小西は、翌年細野晴臣をプロデュースに迎え「オードリー・ヘップバーン・コンプレックス」でデビュー。'95年には欧米ツアーを成功におさめ、世界中に名を知られることになる。'01年3月にピチカートは惜しまれながら解散。数々のミュージシャンの作曲・プロデュースをしてきた小西は、DJやモデル、執筆など多岐に渡って活動している。夫人は『有閑マドモアゼル』の長谷部千彩。
キンクスのギタリスト、デイヴ・デイヴィス、ロンドンに生まれる。兄は言うまでもなく、同バンドの中心レイ・デイヴィス。芸術家肌の兄に対して、細かいことにはこだわらない外向的なデイヴ。その性格の違いなどから仲が悪いことは有名であるが、そもそものバンド結成は、レイがデイヴを誘ったことからであった。'64年のデビュー直後は不発だったものの、3rd「ユー・リアリー・ガット・ミー」が突如大ヒット(後にヴァン・ヘイレンがカバー)を記録した。

『どこかで誰かが見ていてくれる』『おちおち死んでられまへん』、数々の著書でも語られている通り、日本随一の“斬られ役”として凄まじく膨大な作品へ出演し続けてきた大部屋俳優、福本清三が生まれる。2002年に公開された『ラストサムライ』にも見事出演を果たし、頭の先から足の爪まで神経が張り詰めた演技を披露。一瞬に全てを賭ける役者根性と、その大胆な個性で観る者を圧倒し、ファン層も年齢を超えて拡大中。
4月の下旬までマハリシのもとでの修行でインド訪問が決まっていたため、英国不在中の3月に発売するシングルのレコーディングをスタートさせた。EMIの第3スタジオで最初に取りかかったのが「レディ・マドンナ」。この日はドラム、ベース、ジョンとジョージのファズ・ギター、リンゴの2つ目のドラム・トラック、ポールのヴォーカル、ジョンとジョージのバック・コーラスを録音。6日のセッションを含め2日間でこの曲のレコーディングは終了となった。