

プログレッシヴ・ロック・バンド、ジェネシスでの活動で知られるギタリストのスティーヴ・ハケットが、英国に生まれる。幼い頃からリコーダーやハーモニカなど、様々な楽器に親しんだが、どれもあまり上達しなかったらしい。しかし、12歳で手にしたギターは別だった。1970年にクワイエット・ワールドの一員としてデビューすると、翌71年にジェネシスに加入。泣きのフレージングからトリッキーなプレイまで、多彩なプレイでバンドの全盛期を支えた。
70年代にシン・リジィのギタリストとして活躍した、ブライアン・ロバートソンがスコットランドのグラスゴーに生まれる。愛称は“ロボ”。リジィに加入したのは74年のことで、彼はまだ10代だった。とはいえ、バンドのトレードマークになるツイン・リード・ギターの形成に大きく貢献。ブルース・チューンにおける泣きのプレイは特に評価が高い。78年の脱退後はモーターヘッドに在籍したこともあるが、やはりリジィでのインパクトが絶大だ。
ザ・ブルーハーツが初の武道館ライブを行なう。デビュー曲「リンダリンダ」を始め、「TRAIN-TRAIN」など数々のヒットを放っていた彼ら。この日は、愛媛県で強行された原発出力調整実験に抗議する意味を込め「チェルノブイリ」を演奏。同曲は放送コードに歌詞が触れるとして、メジャーデビュー後初の自主制作となったいわく付きの作品。魂のロック・ナンバーとして支持を受け、“社会派バンド”として注目を集める。「チェルノブイリには行きたくねェ」。でも本人はそんなことあまり気にしてなかったのかも(?)。
矢井田瞳の「アイム・ヒア・セイイング・ナッシング」をカヴァーし話題になった歌姫・メイヤ、スウェーデンに生まれる。小さい頃からピアノやフルートを学び、15歳でスペインへ留学、さらにLAで声楽を勉強。帰国後すぐスウェーデン・ポップの名プロデューサーに見出され、'96年アルバム『メイヤ』でソロデビューと万事順調。その明るくキュートな歌声は、日本をも席巻した。その後「ヒッピーズ・イン・ザ・60s」でポップスだけでなく、ロックの才能をも開花。ダイエットに励んで迎えたという初来日公演も大成功した。
ドアーズのキーボード奏者、レイ・マンザレク、シカゴに生まれる。'65年ロスにあるビーチで、たまたまUCLA時代の同級生のジム・モリスンと再会。後に「ムーンライト・ドライブ」として発表されることになるモリスンのアカペラを聴き、インスピレーションを受け、モリスンを中心とした新たなバンドの結成を決意。マンザレクの働きにより、ドアーズは始動しはじめたのであった。そのころの様子は、オリバー・ストーンが監督した伝記映画『ドアーズ』に詳しい。
1941年2月12日、声優・ナレーターとして活躍する石丸博也が宮城県に生まれる。大学浪人中に劇団へと入り、テレビや舞台で活躍していたが、生活のためアルバイトとして声の仕事を始める。70年代に「マジンガー」シリーズの兜甲児でブレイク。またファンより絶大な支持をほこる“ジャッキー・チェンの専属吹替”として、その声はお茶の間でも広く知られている。なお、アニメでは『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー2010』(ロディマスコンボイ/ホットロディマス役)も有名。

1891年チャイコフスキーの指揮のもと、こけらおとしが行なわれたカーネギー・ホール。普段はクラシックのコンサートにしか使われないこの会場で2回のコンサートが行なわれた。アメリカのプロモーターであったシド・バーンスタインは、ニューヨークのもっと大きな会場を用意していたというが、エプスタインがこの劇場でコンサートを行なうことを強く主張したことから、カーネギー・ホールでの公演が決定した。キャピトル・レコードはこの日のコンサートを録音したい意向を示したが、米国音楽家連盟はこれを許可しなかった。