

作曲家・プロデューサーとして活躍する、加藤和彦が京都府に生まれる。ザ・フォーク・クルセイダーズでは「帰って来たヨッパライ」のようなファニーなナンバーから政治的な「イムジン河」まで手掛け、その後に結成したサディスティック・ミカ・バンドでは実に完成度の高いロックを聴かせるなど、その才能は誰もが認めるところ。福田ミカにはじまり、桐嶋かれんに木村カエラと、歴代ミカ・バンドのシンガーを見ても、人を見抜く力も相当なもののようだ。
キング・クリムゾンの発掘ライヴ音源シリーズ第1弾『エピタフ〜1969年の追憶』が日本発売。69年のBBC音源と米フィルモア・ウェストでのライヴを収めたもので、第1期の編成では初の公式ライヴとあり、マニアならずとも重宝した。音質はブートレッグ並みだがそれが逆にカルト的なリアリティを生んでおり、凄まじいインプロヴィーゼーションを存分に堪能できる実に貴重な音源だ。ブートを買い漁っていた真性マニアは、複雑な心境だったかもしれないが……。
“キョンキョン”こと小泉今日子がシングル「私の16才」で歌手デビューを飾った。この曲は1979年に森まどかがリリースした「ねえ・ねえ・ねえ」のカヴァーであるが、タイトルを変更したことと、オリジナルがお世辞にもヒットしたとはいえなかったことから、意外と知られていない事実である。キョンキョンもいきなりの大ヒットとはいかなかったものの、地道にセールスを伸ばして10万枚の売上を記録した。その後の活躍は知っての通り。
吉田美和、中村正人らによるドリームズ・カム・トゥルーが、シングル「あなたに会いたくて」とアルバム『DREAMS COME TRUE』でデビュー。和田アキ子も認める天性のヴォーカリスト、吉田の歌声と、“カラックス”“アンセリウム”“空の写真集”など、どことなくオシャレ心をくすぐる歌詞でポスト・ユーミンの座を勝ち取る。4年に1度の“史上最強の遊園地ドリカムワンダーランド”ツアーや、各人のソロ活動など、その創作意欲は衰えを知らない。
「G線上のアリア」「ブランデンブルグ協奏曲」など、さまざまなところで楽曲を耳にする“音楽の父”ヨハン・セバスティアン・バッハ、ドイツのアイゼナハに生まれる。驚くほどたくさんの曲を後生に残したバッハだが、彼が多く残したのはそれだけではなかった。なんと残した子どもは20人。まさに絶倫! そのバッハの精力の根元は美食にあるといわれ、牛肉の煮込み、鱒のアンチョビパスタソース添え、スモークハムなどなど、洒落た食べ物をたんまりと食していたという。
Echoesのヒット曲「Zoo」発売。身近にいる人を動物園の動物にたとえた、メッセージ色の強い歌詞が印象的で、スマッシュ・ヒットとなる。'00年には、ドラマ「愛をください」でシンガー役だった菅野美穂が、役名「蓮井朱夏」で同曲をカヴァー。Echoesによるオリジナルも再びヒットした。Echoesのヴォーカルは、女優の南果歩と離婚後、みんなの憧れミポリンこと中山美穂と結婚し、世の男子の反感(嫉妬?)を買った、ご存じ辻仁成。

3月21日は「カラー映画の日」。これは1951年の同日に、日本で初めてのカラー映画『カルメン故郷に帰る』が公開されたことに由来。同作は『二十四の瞳』などで知られる日本映画界の巨匠・木下惠介が監督、田舎に帰郷したストリッパーが巻き起こす騒動を描いた作品である(主演は高峰秀子と小林トシ子)。当時カラー撮影をするには相当の明るさが必要であったようで、出演者はかなりの照明熱のなかで撮影に挑んだというエピソードがある。なお、公開時は「総天然色映画」とうたわれていた。
ローリング・ストーンズの会計顧問だったアラン・クラインが3年契約でマネージャーに就任。ポールはリンダ・イーストマンの父親であり、弁護士のジョン・イーストマンをマネージャーに推薦するも、他のメンバーが大反対。その後、アランは大幅なリストラによってアップルの立て直しを図るが、アランに不信感を抱いていたポールはジョン・イーストマンなどを顧問弁護士として雇い、真っ向から対抗。それが引き金になってビートルズ内の不和は広がっていき、最終的には解散へと駒を進めることになってしまった。