


演歌歌手の森進一が山梨県に生まれる。育ちは鹿児島県。中学校を卒業した後、集団就職のために上京するが、歌手への夢を捨てることはなかった。テレビののど自慢番組で勝ち抜いたことをきっかけに、66年に「女のためいき」でデビュー。いきなりのヒットを記録し、人気歌手のひとりとなる。「おふくろさん」などで聴かせるアクの強い独特の声は、モノマネの定番になるほどの認知を獲得。演歌界のみならずその知名度は絶大である。
4000曲を超える歌謡曲を作曲、昭和の日本人の琴線に触れる歌を世に送り続けた古賀政男(1904〜78)が福岡県に生まれる。1930年(昭和5年)に「影を慕いて」で作曲家デビューを果たし、以後「酒は涙か溜息か」「湯の町エレジー」「柔」「悲しい酒」など傑作が次々とヒット。〈古賀メロディ〉と呼ばれ親しまれた彼の音楽の原点は、少年時代に聴いた朝鮮の労働者たちの哀歌と、いとこにもらった大正琴だったという。〈ショパンがピアノの詩人なら、古賀はギターの詩人〉とも評された。没後、その功績をたたえて国民栄誉賞が贈られた。

ピアノ曲「舞踏への勧誘」やオペラ「魔弾の射手」などで有名な作曲家ウェーバー、ドイツに生まれる。モーツァルトの実例を知る父親から、神童として育てられ、18歳でオーケストラの指揮をとるが、団員ともめ、自殺未遂を起こしたこともあったとか。30代半ばで「魔弾の射手」が成功し、生活は楽になる。が、もともと体が弱かったため、山積みになる仕事と病魔と闘う日々が続き、1826年、結核で死去。彼の身の回りは、死を予期していたかのごとく、整理されていたという。


ポールは、シングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のプロモーションも兼ねて、フジテレビ系の音楽番組『夜のヒットスタジオ DELUXE』に、ロンドンからの衛星生中継にて出演した。その後も何度かこの番組にポールは出演し、90年の来日直前の出演では、番組内でクローズド・サーキットの告知を自ら行なったりした。ちなみに番組内で披露された「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」は、生演奏ではなく音に合わせただけのいわゆる口パクだった。