元
ビートルズ(The Beatles)のギタリスト、
ジョージ・ハリスン(George Harrison)の生涯を追った映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』のヒットを記念して、トーク・ゲストに、ビートルズに縁の深い湯川れい子(音楽評論・作詞家)、星加ルミ子(音楽評論家)を招き、没後10年にあたる11月29日、角川シネマ有楽町にてメモリアル・トークショーが行なわれました。
トークショーに登壇した湯川と星加は、ビートルズが初めて来日をした1966年に彼らに会ったことのある貴重な存在。また、星加はそれ以前の1965年に日本人として初めてビートルズへの単独会見を行い、以来、解散する1969年まで複数回ビートルズ取材を行なっています。
初めてジョージに会った時の印象は、「ニコニコして嫌がっている訳ではなくて、いつもギターを抱えていて。でも困ったことに、何を聞いても“Yes”とか“No”しか言わないんですよ。原稿にならないんです(笑) だから、私は“と、ジョージはにっこり笑った”とかアドリブで書いて。当時22〜3歳位の末っ子な甘えん坊気質なのかな、というのが当時受けた印象です」と振り返る。
一方の湯川は、ビートルズが初めて来日した1966年にジョージとの対面に成功。招聘した読売新聞社が作った“来日特集号”の編集長だった湯川さんは、「呼んでいる側だから、当然インタビューできるものと思っていたら、日本で取材ができるのは決められた一部の記者だけ。「当時、星加さんは『ミュージック・ライフ』の編集長で、私も来日特集号の編集長。でも、私たちは記者会見に入れてもらえるのがやっとだったんです。質問はその記者たちが前もって協議して、彼らがオフィシャルに質問する以外は一切ダメで……。私たちは前から3列目ぐらいに座っていて、その頃からミーハーの代表みたいなもので、星加さんは面識があるから“ポール!”と手を振ったりして、“ジョン!”とか“ジョージ!”とか2人でキャーキャー言って……後ですごく叩かれましたね(笑)」という湯川の言葉に、星加も「仮にもプロの編集長や音楽評論家などをやっているような人間が、ファンみたいに記者会見で叫んだというが癇に障ったんでしょうね」と感想を述べました。
コンサートのスタッフ用に作られた腕章を彼らが欲しがっているから届けるという口実を元に、ビートルズとの面会に成功した湯川。4人に腕章を渡したのだが、たまたまあげた腕章は、「ポールは“連絡係”と書かれたもの。ポールは“僕にピッタリだね!”と喜んでくれて」。ジョージには“主催者”の腕章をあげたそうで、ジョージ“僕のが一番偉いんだね!”すごく嬉しそうに受け取ったそうで、「それまでは内省的な人、物静かな人だと思っていましたが、映画を観て、“あの頃の話だったのか!”と不思議に重く感じられます」と、湯川自身が持つジョージのエピソードと、映画で目の当たりにした彼の姿を照らし合わせて、特別な感慨を抱いた様子。
また、星加は、来日時、外に買い物に出ることができない彼らのために、ホテルの部屋に集められた、さまざまなお土産屋でのエピソードを披露。「ジョージはカメラ屋さんのところから動かないんですよ。長谷部 宏さん(当時ミュージック・ライフ誌ビートルズ専門カメラマン)とカメラについてアドバイスを聞いてるんです。私は長谷部さんに色々撮って欲しいのに、彼は色々説明をしていて。その時、ジョージ・ハリスンは私が初めに思っていたほど大人しい少年ではなくて、こういう意外な一面もあるのかと気づいたんです」。
メンバーの接見に成功した湯川は、
ジョン・レノンに言われた「僕らのところまでたどりつけるのは権力者だけ。本当にうんざりなんだ」という言葉を引き合いに出し、わずか23歳で名誉も富も何もかも手に入れて、そういう状況下にあったからこそ、精神世界に誘われていったというジョージの気持ちが分かる気がします」と、ふたりは、それぞれの実体験、記憶している言葉と映画の様々な場面がリンクし、話は尽きない様子でした。
最後に、湯川は、「ジョージは本当に沢山曲を書いていて、ハンブルグ時代のビートルズは、ジョージが書いた曲しかなかったんです。そんなすごい人が第3の男だったという、それだけビートルズが偉大なグループだったことだと改めて思います。親友であるクラプトンも“ギタリストとして尊敬できる人だった、彼は何でも弾ける”と劇中で語っています。ギターに興味のある方は特にそういう部分にも注目して見ていただきたいと思います」と見どころを紹介。星加は、「ジョンとポールの陰に隠れてよく分からなかったジョージのことが、この映画を観れば謎が解けて、“なるほど!”とよく分かると思います」とコメントしました。