大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第22回: 永山愛樹(TURTLE ISLAND / ALKDO)
掲載日:2016年05月13日
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大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第22回:永山愛樹(TURTLE ISLAND / ALKDO)
 全国の祭りフリークスが注目する、とある奇祭が2012年から行われていることをご存知だろうか?場所は愛知県豊田市、舞台は矢作川にかかる豊田大橋の下に広がる千石公園。その祭りの名は〈橋の下世界音楽祭〉という。江戸時代の集落が蘇ってしまったかのような非日常空間でパフォーマンスを繰り広げるのは、ハードコアあり、阿波踊りあり、伝統芸能あり、アジア各地の民謡あり、と通常のフェスとは明らかに異なる顔ぶれだ。
 今年も5月27日(金)から29日(日)までの3日間行われるこの〈橋の下世界音楽祭〉を取り仕切っているのは、豊田市を拠点とし、2014年には欧州最大規模の音楽フェス〈グラストンベリー・フェスティヴァル〉のメインステージにも立ったバンド、TURTLE ISLANDとその仲間たちである。和太鼓や篠笛などの伝統楽器を採り入れた唯一無二の汎アジア的ハードコアを奏でるこのバンドのフロントマン、永山愛樹に今年の〈橋の下世界音楽祭〉のこと、伝統芸能や民族音楽への意識、TURTLE ISLANDのメンバーでもある竹舞との別ユニットであるALKDOのことなどたっぷり話を聞いた。ローカルを盛り上げていくためのヒントと刺激に満ちたロング・インタヴューをお届けしよう。
友達の家に遊びにいくようになって初めて自分の家が特殊だってことに気付いた
――愛樹くんの家族はおじいさまの代で韓国から渡ってきたんですよね。
永山愛樹(以下 愛樹) 「そうですね。じいちゃんは確か18のころ日本に働きにきて、同じように韓国からきていたばあちゃんと日本で出会って結婚したんです。当時名古屋の丹後通りあたりの部落で親父も育ったんですけど、親父は大人になってからダンプで仕事をするようになって、景気がよかった豊田で徐々に土建屋みたいなことを始めるんです。そのころ俺が生まれたっていう」
――じゃあ、愛樹くんは豊田生まれ・豊田育ちなわけですね。
愛樹 「生まれたのは豊田なんですけど、田んぼと工場が並んでるような郊外。だから豊田の中心部じゃないんですよ」
――豊田の中心部は歴史の古いところですよね。趣のある神社や古道もあるし、毎年10月には町内を山車が曳きまわる挙母祭りもある。そういう伝統とは縁がなかった?
愛樹 「ないですね。ウチは中心部から2駅も離れていたもんで、祭りもなにもなかった。あるのは子供神輿ぐらいで、盆踊りといえば〈炭坑節〉と〈ホームラン音頭〉(註1)。でも、子供のころ、近所に三河萬歳(註2)と獅子舞をやってたオジさんがいたんですよ」
註1: ホームラン音頭 / 盆踊りの定番曲。歌は長山洋子在籍時のビクター少年民謡会、リリースは1982年。
註2: 三河萬歳 / 旧三河国(現在の愛知県東部)を中心とする広い地域で行われていた祝福芸。漫才のルーツのひとつとされている。
――へえ!三河萬歳!
愛樹 「そうそう。親子でやってたんだけど、2人とももう亡くなっちゃって。その親子が地元の小学校に郷土芸能クラブを作ったんです。俺は小学校3年だったんだけど“これ、やってみたい!”と思って、そのクラブに入って獅子舞とお囃子をやるようになった。自分の生活にないものなんで、祭りとか伝統芸能に対する憧れがあったんでしょうね。挙母祭りにも憧れがあったんだけど、自分の地元じゃないから参加できないし。あと、ウチの親父は13人兄弟の長男だから、家の中はまるっきり韓国の文化でしたね」
――法事や祭礼も完全に韓国式だったと。
愛樹 「そうなんです。ウチは両親が共働きだったから忙しかったし、小学校くらいからじいちゃん・ばあちゃんも同居してたので、食事も韓国式。朝からキムチやナムル、テンジャン(韓式みそ汁)などなど。チヂミは焼き置きしてあってでかいザルに積まれてたし、縁側には唐辛子が干してある。家の中では常に朝鮮人参の匂いがしているような感じ。友達の家に遊びにいくようになって初めて自分の家が特殊だってことに気付いた(笑)」
――韓国に住んでる同世代の人たちよりも伝統的な韓国文化に触れてたんじゃないですか。
愛樹 「ウチの兄貴の嫁さんは在日じゃなくて韓国から嫁いできた人なんだけど、ウチの法事のやり方を見てびっくりしてた。60年前の韓国のやり方で、今じゃどこでもやってないって」
――韓国の伝統芸能に触れる機会もあったんですか。
愛樹 「ありましたよ。民団(在日本大韓民国民団)の集まりで行われた芸能なんかは子供のころから観てました。あと、親戚が集まると誰かが〈アリラン〉や〈トラジ〉(註3)を歌いだして、ばあちゃんが踊りだすんです。そういう光景は小さい頃から見てたし、家の中の物も韓国のセットン(五方色)の世界が一番身近だったんですよ。その反面、袢纏や股引みたいな祭りの装束には憧れがあって、着たくて着たくて仕方なかった(笑)。TURTLE ISLANDの根本にはそういう祭りや日本の芸能に対する憧れがあるんですよね」
註3: 〈アリラン〉や〈トラジ〉 / どちらも朝鮮半島に伝わる民謡。
“金出してロックができるか!”
――パンクとはどうやって出会ったんですか?
愛樹 「2番目の兄ちゃんが音楽好きで、留守中に勝手に盗み聴きしてたんです。いまだに覚えてるのは久保田早紀〈異邦人〉のシングルと、RCサクセションのカセットテープ。それから自分でTHE BLUE HEARTSを聴くようになって、そのすぐあとにLAUGHIN' NOSEすね。一番最初に自分で買ったシングルは清水宏次朗の〈Love Balladeは歌えない〉(笑)」
――それが中学ぐらい?
愛樹 「そうそう、中学ぐらい。中1ぐらいでバンドも始めて、JUN SKY WALKER(S)やTHE BLUE HEARTS、BOØWYのカヴァーもやってました。でも、LAUGHIN' NOSEを知ってからパンクしか聴かなくなっちゃった」
――聞くところによると、同学年にパンク・バンドが6、7もあるような中学校だったらしいですね。
愛樹 「そうなんですよ。なんでだか分からないんだけど、パンクが爆発的に流行ってたんです。『DOLL』(註4)だけがパンクに関する唯一の情報源だったから、それをみんなで廻し読みしたり、友達の実家の造園屋でバイトして溜めた金やお年玉を使ってパンクの格好をしたり。パンク・ファッションで路上に出るようになって初めて他のパンクの人たちとも出会って。中学校の掲示板にギグのフライヤーを貼ったりしてましたよ。でも、ギグの会場は地域文化広場の音楽室(笑)」
註4: DOLL / 80年に創刊されたパンク専門の音楽雑誌。2009年に廃刊。
――豊田の人たちからすると、名古屋ってどういう場所なんですか。
愛樹 「いやー、大都会ですよね。今はそんなこと思わないけど、子供のころは豊田よりも名古屋のほうが格上だと思ってたし。ライヴハウスも名古屋までいかないとないわけだから、自然と名古屋が拠点みたいになってきて。でも、やっぱり地元でやりたいわけですよ。それで〈炎天下GIG〉っていう豊田市駅の駅前でやってたゲリラ・ライヴに関わっていくっていう」
――その炎天下GIGは愛樹くんたちが主催だったんですか?
愛樹 「いや、今はROTARY BEGINNERS(註5)っていうバンドをやってるSOGAくんたちの年代、僕よりも5歳ぐらい上の人たちが始めたんです。彼らと初めて会ったのは忘れもしない中2の夏(笑)。俺らがお年玉貯めて買ったピカピカのブーツを履いて街を歩いていたら、ストリートでたむろするパンクスにからまれたんですよ。でも、俺らは彼らがツギハギのパンツとか見たこともない格好してるから、嬉しくて大興奮してるわけ。俺らはG.B.Hも知ってる、エクスプロイテッドも知ってるぞって嬉しそうに話しかけまくるもんだから、のちに聞いたら調子狂っちゃってそこから仲良くなったっていう(笑)。それで“来月から〈炎天下GIG〉っていう無料ギグをやるから手伝え”ってことになって」
註5: ROTARY BEGINNERS / 93年に結成された豊田のバンド。2011年にはTURTLE ISLANDと同じmicroActionより2ndアルバム『シャイニングボーイ』をリリース。
――へえ、いい話だ(笑)。
愛樹 「あと、中2くらいのころに自分たちのバンドでYAMAHAのコンテストに出たことがあるんですけど、そのときも地元の先輩パンクスたちが乱入したことがあって。今から思えば可哀想な話なんだけど、コンテストに出るはずだったヴィジュアル系バンドの楽器を奪って、そのバンドの名前を勝手に名乗ってライヴをやっちゃったんです(笑)。俺たちは目をギョロつかせながらそれを観てたんだけど、主催者側とその人らが大乱闘になって」
――そんな映画みたいなこと、現実世界ではまず起きないですよ!
愛樹 「そうすよね(笑)。そのコンテストって出場するにもノルマで結構お金を払わなきゃいけなかったんですよ。それもあってその人らがステージ上からジャックしたマイクで“金出してロックができるか!”って。今考えるとその人らも当時まだ18ぐらいだし、俺らは中2。その“金出してロックができるか!”っていう言葉が今もずっと残っているんすかね。田舎の小さな事件だけど、俺にとっては革命的な事件でして」
――すごい話ですねえ……。
愛樹 「その後、炎天下GIGを始めるようになるんです。豊田のパンク・バンドも出てたし、当時から交流があった豊橋のバンドやBLANKEY JET CITYとかレニー・クラヴィッツのコピーバンドとかも出てましたよ。俺らも最初はコピー・バンド。コンチネンタル・キッズ(註6)GAUZELIP CREAMなどのコピーをやってました」
註6: コンチネンタル・キッズ / 81年に元SSのシノヤンらによって京都で結成されたパンク・バンド。
――その炎天下GIGでの体験が大きかったわけですね。
愛樹 「そうすね。先輩たちにも鍛えられたし、炎天下GIGは大きかった。そのころから警察やヤクザと対応してたし、そこで学んだことが完全に〈橋の下(世界音楽祭)〉で活かされてますね。だって、一時期なんて楯を持った機動隊とかもきてたし」
――機動隊に応対する中学生(笑)。
愛樹 「みんな熱くなって泣きながら対応してましたよ(笑)。俺たちはライヴをやりたいだけなのに!って。ピークのときはパンクスももちろん、地元の友達や一般の客もいたし、すごい人数だった。俺もORdER(註7)のころは関わってたけど、(99年に)TURTLE ISLANDを始めて地元を離れて旅したりあちこちでライヴをやるようになってからは少し離れてたんですよ。その後も炎天下は現ORdERのコースケから若手に引き継がれ昔は月1でやってたんだけど、今はだいぶ(路上ライヴが)厳しくなっちゃって、一番最後にやったのが何年か前なのかな?」
註7: ORdER / 愛樹がTURTLE ISLAND以前に参加していた豊田のハードコア・バンド。愛樹在籍時にもEP『Punk Navigation』(96年)のリリースがある。99年の愛樹脱退後もメンバーチェンジを経て精力的に活動中。
――なるほど、やっぱり今はできないんですね。
愛樹 「でも、今はSYSTEM FUCKERっていう若いバンドが〈TOYOTA PUNK CARNIVAL〉っていうフリーライヴを豊田の駅前やスタジアムなどで始めてますね。だから、豊田には〈橋の下世界音楽祭〉と〈TOYOTA ROCK FESTIVAL〉、それと〈TOYOTA PUNK CARNIVAL〉っていう3つの無料フェスが行われてるんですよ。ライヴハウスやレコード屋があるような場所じゃなかったからこそ、どうやってやるかみんなで考えた結果なんですよね」
意味もなく涙が止まらなくなった
――ORdERのころは海外ツアーもやってたんですよね?
愛樹 「いや、本当はORdERで海外ツアーをやりたかったんだけど、みんな金がなくてできなくて。当時は俺だけトラックに乗ってたから結構高級取りで(笑)、俺がヴォーカルになって当時トリオだったROTARY BEGINNERSと一緒に行くことになったんです。それまでは俺も英語で歌ってたんですけど、イギリスでライヴをやったとき、何ともいえない恥ずかしさに襲われて……“これじゃねえぞ!”と思ってしまった。“なんでお前は英語で歌うんだ?”と言うやつもいたし。俺個人が歌い手として、表現者として初めて恥ずかしくなってしまったんすね」
――それってすごく象徴的な変化ですよね。日本にいたときはUKパンクの影響下にあるものを歌うことに違和感を感じることはなかったわけですよね。
愛樹 「そうなんすよ。そのときにTURTLE ISLANDのヴィジョンがパッと出てきたんです。太鼓を入れて、日本のビートで自分たちのパンクをやろうと。イギリスから帰ってすぐにバンドを辞めて、近所の仲間を集めてTURTLE ISLANDを始めたんです」
TURTLE ISLAND
――それが99年。最初はどういう編成だったんですか?
愛樹 「今は抜けちゃった大太鼓の(山口)耕っていうヤツと、今もやってるツーさん(都筑 弘 / 太鼓, タブラ)と俺の3人。そのころ、いろんなしがらみがイヤになっちゃったんでしょうね。民族音楽とか土着音楽は昔から好きだったので、近所の友達と“何か原始的なやつをやろう”と始めたんです。いま〈橋の下〉をやってるところ(豊田大橋下の千石公園)で、で焚き火をしながら太鼓と拡声器だけで練習してました」
――小学生のときにやってたお囃子や獅子舞のイメージもあった?
愛樹 「それはありましたね。祭りの装束を着たいというイメージもあって。でも、実際に着てみたら似合わなくて(笑)。それで今みたいな感じになった」
――竹舞さんが加わるようになったのはいつぐらいだったんですか。
竹舞 「本当に初期のころですね。太鼓と歌だけで録ったっていうテープを居酒屋で聴かされて、めっちゃ格好いい!と思って。私はもともとパンクのバンドもやってたけど、“ジャンルを問わずいいものはいい”というスタンスだった。だから、最初のテープがすごくおもしろく感じて、私もやりたい!と言って参加することになったんです。でも、私も太鼓だし、最初は太鼓5人にヴォーカルみたいな編成で」
――竹舞さんがやってたのはどういうバンドだったんですか?
竹舞 「ISOLATIONっていうハードコア・バンドでヴォーカルをやってました」
愛樹 「竹舞は当時から“カラオケで〈天城越え〉を歌わせたら凄い”っていう噂が広まってるぐらいの女子高生で(笑)。TURTLEを始めたときに女性ヴォーカルを入れたくなって、竹舞に声をかけたっていう」
――TURTLEが凄いのは、一番最初の段階で今のスタイルの原型ができてたってことですよね。ロック・バンドの編成からだんだん太鼓が増えていたんじゃなくて、最初は太鼓しかいなかったっていう(笑)。
愛樹 「確かに(笑)。17年間活動しているなかで、民族楽器のメンバーが活動休止してる今の編成が一番ロック・バンド的ですもんね」
――それにしても民俗芸能のどういう部分にそこまで惹かれたんでしょうね?
愛樹 「僕らの世代ってポップスで育ってるじゃないですか。民謡も身近じゃなかったし、歌謡曲にも好きなものはあったけど、そういう自分にとっては歌謡曲とはまったく違う民俗芸能や民俗音楽に惹きつけられるものがあったんでしょうね。うまく言葉にできないけど……」
竹舞 「単純に血が騒ぐものあったんだろうし。当時はバンドのスタイルを作るため、いろんな民俗芸能を見てまわりましたね。佐渡にいって鼓童を見たり、エイサーを見に行ったりインド音楽聞きに行ったり」
愛樹 「阿波踊りを始めて見たとき、なぜか涙が止まらなかったんですよ。通りの向こうから巨大な連が太鼓と鐘を叩きながらやってきた瞬間、涙がバーッて出てきて……そういうこと、あるじゃないですか?」
――ありますね。
愛樹 「ハードコアのライヴを初めて観たときと一緒だったんですよ。ハードコアもヴォーカルは何を言ってるか分からないけど、意味もなく涙が止まらなくなった。それが音楽のファースト・インパクトとしてあるんです。TURTLEはいまだに音楽的には素人だと思うし、それは自分たちでも分かってるんだけど、生活のなかから絞り出てくるグルーヴみたいなものを信じてるし、そこを目指してる。民族芸能もパンクもそういうものだと思ってて」
――なるほど。
愛樹 「自分たちにとってはパンクも土着音楽。200年後にはパンクも土地の民謡になってるかもしれないし、自分たちは自分たちの芸能をやりつつ、伝統的なものも学んでいきたいと思ってるんです」
――その“伝統的なもの”というのも、自分たちの一部という感覚ではないわけですよね。ある意味、海外のパンク・バンドに対と同じ距離感というか。
愛樹 「そうそう、まったく同じ。セックス・ピストルズ観てたのと同じ感覚で民謡の人を見てますね俺は(笑)」
竹舞 「私もそうだな。自分たちの地元にはなかったものだし、本当はその伝統の一部になりたかったんだけど、なれなかったという思いがすごくある」
愛樹 「なりたかったけど、無理だった。でもね、自分たちの娘たちが“二代目のTURTLE ISLANDをやりたい”って言ってるんですよ(笑)。そうやって三代目・四代目って勝手に続いていけば、それは伝統芸能になるわけで。別にそうやって続けることが目的というわけではもちろんないけど、それもおもしろいじゃないですか」
技術がどうこう、楽曲がどうこうっていう話じゃない
――TURTLE ISLANDはバンドのあり方自体も他とは違いますよね。周辺の仲間たちや家族も含めた共同体というか。お客さんとの関係も含め、最初はグレイトフル・デッドとデッドヘッズみたいだなと思ったし、ある意味では“TURTLE ISLAND”っていう名前の祭りをやってるみたいな感じもするんです。
愛樹 「そうそう、自分たちの祭りをやりたいんですよね。豊田っていう街だからこそこういうことができるんだろうし、そこは感謝してますね。ただ、橋の下にしても豊田の為だけにやってるわけでもないし、豊田の祭りをやってるつもりもないんです。語弊がないように言いますともちろん地元好きだから何か貢献できたらとは思いますが。豊田はどうとか自治体がやるみたいのでなくて、なんかもっと飛び越えた突き抜けた命の祭りをしたい訳なんです。だから、地元の連中とよそから来た人たちの間に線引きがあるわけでもなくて、いや、もちろん地元は距離が近い分関係性も近いですが、同時に土地もエリアも距離も関係なく意識が同調してる同志達も全国、いや世界中に沢山いるって事ですが。もちろん大石くんとか関わってくれる人たちも含めての“この同時代に生きる意識の祭り”をやってるっていう感覚はありますね」
――確かに橋の下から地元に帰るとき、友人たちとは“じゃ、また橋の下で”って言って分かれるんですよね。だんだん“橋の下に遊びにいく”というより、里帰りみたいな感覚になってる(笑)。
愛樹 「そう思ってもらえると嬉しいすね」
ドキュメンタリーCM「橋の下世界音楽祭〜SOUL BEAT ASIA〜 2014」
――で、その橋の下なんですが、2012年の1回目の段階から“SOUL BEAT ASIA”というサブタイトルがついていたわけですけど、愛樹くんのなかで“ASIA”というテーマは最初からあったわけですか。
愛樹 「それはありましたね。やっぱり震災がデカかったんですよ。被災地に物資運んだりもしたし、(反原発)デモにも誘われたけど、気持ちが乗らなかったんですよね……これはデモをやってる人たちを否定するわけでは一切なくて、参加しようと思ったこともあったけど、なんとなく“やらんとあかん”みたいな気持ちもあって、それって絶対違うと思った。デモをやるのが違うという意味じゃなくて、“やらんとあかん”と思って行くのが違うという。……すごく悩んだんですよ。いろいろ考えて考えて考えた結果、やっぱりお祭りをやろう!ということになった。自分や被災地の人たち含めて答えを出なくてモヤモヤとした気持ちを抱えた連中も多かったし、自分たちのビートを取り戻すための祭りをやろうと。明治以降長い時間をかけて軸がズレてきてしまったわけだから、そのチューニングを合わすための祭りをやろうと。何十年、何代もかかるかもしれないけど、それだけの時間をかけて取り戻す。橋の下はそれぐらいの気持ちで始めてるんです」
――愛樹くんアジアに意識を向けるきっかけのひとつになったのが、2012年4月に内モンゴルのハンガイ(註8)と2マンをやったことなんじゃないかと思うんですが。
註8: ハンガイ / 内モンゴル出身、北京在住のメンバーを中心に結成されたトラッド・ロック・バンド。TURTLE ISLANDとの2マン・ライヴが行われたのは2012年4月7日、東京・渋谷 CLUB QUATTROにて。
愛樹 「あれは大きかったすね。ハンガイのライヴには本当にクラって……トラウマになるぐらいだった。“俺たちは何をやってるんだろう?”とすら思ってしまうぐらいの衝撃」
――どこにそこまでの衝撃を受けたんでしょう?
愛樹 「おそらくハンガイの音楽表現に対してだけじゃなくて、モンゴルの文化そのものへの衝撃なんでしょうね。後からこじつけるならば、ウチのルーツは朝鮮半島の南部、慶尚南道付近なんすけど、もともとはもっと北の方から移民してきた一族だと聞いていて、なんせ陸続きの大陸だからずっと遠い昔モンゴルとかからやってきた可能性もなきにしもあらずで、もっと言っちゃえば朝鮮はモンゴルにも攻められてるから、混血してる可能性もあって。そんなところもあってグッとくるものがあったのかもしれない。モンゴル人にもお前の顔はモンゴルによくいる顔だとよく言われるんですよ。完全に北方モンゴロイド系ですよね、この顔は(笑)。で、考えたんですが、遺伝子的な記憶からグッとくるのか、モンゴルの音楽が単純にいいからグッとくるのか。よくわからないけど、ハンガイを初めて観たときに涙が零れてくるものがあって、それって明らかにハンガイの技術がどうこう、楽曲がどうこうっていう話じゃないんですよ」
――なるほどね。
愛樹 「ハンガイと初めて会ったとき、彼らから“北京で〈ハンガイ・フェス〉(註9)っていうのを始めたんだ”という話を聞いたんですね。なので速攻俺らも遊びに行って。彼らは本当に来ると思ってなかったみたいで驚いてたけど(笑)、2日間足がパンパンになるぐらいまで歩き回っていろんなバンドを見たんですよ。ハンガイを巡るそういう体験すべてが大きかった。自分たちが持っていたヴィジョンに加え、ハンガイ・フェスを経験したことでそのヴィジョンがだいぶ大きくなりました」
註9: ハンガイ・フェス / 2010年より北京で行われているハンガイ主催の音楽フェス。正式名称は〈杭盖音乐节(Hanggai Music Festival〉。TURTLE ISLANDも出演を果たしている。
ハンガイ(杭盖)
――ハンガイ・フェスは内モンゴルのバンドだけじゃなく、いろんなバンドが出てた?
愛樹 「そうすね。俺らが遊びに行ったときはソウル・オブ・ドランっていうウイグルの長老たちのグループだったり、ラジャスタンの踊りの人たちも出てたり、モンゴルの人たちのなかにもアヴァンギャルドなバンドがいたり、打ち込みのグループがいたり、本当にいろいろですね。カザフとかイスラエルのバンドもいたし、もちろん漢民族のバンドも出てました」
――象徴的だと思うのは、あくまでも〈橋の下世界音楽祭〉であって、〈橋の下世界音楽フェスティヴァル〉じゃないってことですよね。
愛樹 「そう、イヴェントじゃないすよね。入場料に関してもいろいろ考えたんですよ。最初は“入場無料で退場有料にする?”という案も出たんですけど(笑)、(お金を)取る気は全然なかった。みんな疑心暗鬼のなか、人や感覚を信じて投げ銭だけでやってみたらどうなるか」
――やってみて、どうでした?
愛樹 「1年目に思いっきり借金できましたね、2、300万くらい(笑)。でも、思ったよりも全然少なかったし、絶望感はなかった。“借金はできたけど、投げ銭だけで何百万も入った訳でこんなに集まるんだ!”っていう希望があったな。おもしろいことをやればみんな払ってくれるんだなと思ったし、このまま続けていけば大丈夫だという確信だけがありました。実際、続けていくうちに来場者の数も増えてるし、今では何とかホントギリギリのトントンいけばいいかなと。いずれもう少しおもしろいことや日常的にもこういった創造的な意識を持続できるような共有場所を創設したり、やりたいことはたくさんあるので、そういった運転資金くらいできるくらいになっていくといいですがね」
――うん、それが理想ですよね。
愛樹 「ただ、橋の下のことを知ってる人ってあくまでもSNSやってる人か地元の繋がり、それとフリークスぐらい。来てくれた人全員がせめて2,000円ずつ投げ銭に入れてくれたらすごいお金になるだろうけど、そうはいかないわけで。でも別に全然いいんすよ、払いたい人が払える分だけで。あまり考えずに継続していって、いつか本当の祭りになっていったらいいなあって。このやり方で持続して、さらにこれに付随する施設やコミュニティーなどが創設できるようになるとこまでいったら本物ですよね」
――今年はどんな感じになりそう?
愛樹 「毎年明確なコンセプトがあるわけじゃないんですけど、なんとなく5年で1回という区切りの年だと思っていて、終わりの年であって始まりの年になると思う。あと、今年は盆踊りをやろうと思ってて、その準備をしてます。もともと橋の下の会場はTURTLEを始めた頃に練習してた場所で、その頃から“いつかここで盆踊りをやろう”って話してたんですよ。〈炭坑節〉とか〈ホームラン音頭〉の音頭取りをやるのが夢。子供の頃の俺らはラジカセだったから、生バンドでやろう!って。だから、俺らの盆踊りでは新旧の音頭取り部隊を揃えて、スタンダードな盆踊り歌をやったり、〈アナーキー・イン・ザ・UK〉の音頭版替え歌〈穴空き音頭〉とか〈ゲット・ザ・グローリー音頭〉なんての作ったり、自分らの世代の聴いてきた音楽を音頭に変換したりして盆踊りやったら楽しいかなと(笑)」
誰も書き残さなかった道ばたの素晴らしい音楽はたくさんあったと思う
ALKDO
――ここ数年はTURTLE以外にも竹舞さんとのアコースティック・デュオ、ALKDO(アルコド)でも活動してますよね。何年前から始めたんですか?
愛樹 「2年前ぐらいです。本当は年間100本200本のライヴをやりたいんだけど、TURTLEだとできないし、少人数でやろうと。竹舞とは友達の結婚式とかでは昔からちょいちょい一緒にやってたんすがね。竹舞が韓国の太鼓を叩いて、俺がギターで。それが結構よかったんですよね」
――ALKDOの音楽性はTURTLE以上にトラッド寄りですよね。そうした方向性は最初から決まってたんですか。
愛樹 「それは最初からありました。TURTLEの曲でも自分が最初考えてるグルーヴっていうのはあって、それは案外ALKDOのほうが近いんですよ。TURTLEはみんなの集合体でやってるので、思わぬものになる。それはそれで楽しくて、いろんな発見があるんだけど、最初の頃はイヤだったんですよ」
――なんで?
愛樹 「曲を持っていくと全然違うものになっちゃうから。でも、徐々に自分のエゴを手放していける要になってきたら自分ひとりでは想像もつかない新しい境地にいけるようになってきたんですね。でも、自分の表現としてももう少し追求したいものもあって、それはまずALKDOでやっていこうと。竹舞は学年は違うけど、小学校も同じで近所なんすね。感覚的にも共感できるとこはたくさんあるし、音楽的にも技術的にもお互い中学生英語しか喋れないようなものなので(笑)、何かと話が早い。自分としては死ぬまでに探求したい、いまだ見ぬ自分の音楽や歌というものがモヤモヤっとありまして、ALKDOではそれをのんびり追求していける気がしてて」
――ALKDOの最新作『AMEBA』も素晴らしいですよね。〈アリラン〉がまた最高で……。
愛樹 「いやー、ヘタクソだけどね(笑)」
――なんというか、あの歌の背景にあるものと深いところで繋がってる歌だと思った。
愛樹 「何回歌っても飽きないんすよ、〈アリラン〉は。毎回歌ってるから聴く側にするとくどいかもしれないけど(笑)、自分のなかの鉄板というか、どうしても歌いたくて。あれを歌うとじいちゃん・ばあちゃんの顔が出てくるんです」
――〈アリラン〉を韓国語で歌うことはないんですか?
愛樹 「たまに歌ってるんですよ。でも、俺はハングルを聴いて育ってるけど、話せないんですよ。その意味ではやっぱり基本的には日本人だし、そのうえで在日韓国人って言ってるんすよね。日本人でもなければ韓国人でもなくて、日本人でもあって韓国人でもあるっていう。だから、〈アリラン〉を歌うことによって自分が韓国人であるというアイデンティティを押し出しているわけでもなくて、とにかく〈アリラン〉という歌が好きなんです。“僕、パンクが好きなんですよ”って言うのと同じ感覚で韓国の民謡を歌ってるんです」
――なるほど、よく分かります。
愛樹 「単純にいって、長い間歌われてきた歌ってどこの国のものでも力がありますよね。〈十九の春〉にしても〈安里屋ユンタ〉にしても」
ALKDO『AMEBA』
――ALKDOでは大三弦(註10)っていう弦楽器も弾いてますよね。
註10: 大三弦 / 中国北部に伝わる弦楽器。日本に伝わり直接三味線のルーツとなったものは中国南部のもので、こちらは“小三弦”と呼ばれるが元々この大三弦が南下し小三弦になったとも言われている。
愛樹 「そうすね。あれはTURTLEのツアーで中国に行ったとき、楽器街を歩いてるときに見つけたんです。試しに弾いてみたらあの音に一発で惚れちゃって。後で調べたらあれは元々中国北部やモンゴルなどの楽器で、あれが形を変えながら南下していって、17〜8世紀ころに沖縄や奄美、大阪の堺などに渡来して沖縄の三線や三味線に変化していったものなんです。なんか自分がその楽器を手に取ったのも運命的なものを感じたんですね。自分の中には韓国の歌の感覚があって、それを日本の三味線を弾きながらやろうとしたこともあったんだけど、やっぱり風土が違うんですよ。日本の三味線で韓国のソリは歌えないんですね。だけど、中国の大三弦では歌える気がしたんすよ。やはり大陸の音なんですよね」
――へー、おもしろい。
愛樹 「とは言うものの、デタラメに勝手にやってるだけで、ド素人のハッタリ芸ですけどね(笑)。でも、既存の伝統芸以外にも、いつの時代にも手に取った楽器や創作楽器を我流にやり続けることで生まれたものもたくさんあるわけだし、宮廷音楽みたいな高貴なもの以外にも誰も書き残さなかった道ばたの素晴らしい音楽はたくさんあったと思うんですよ。だから、俺もここから10年20年30年かけて自分の歌を見つけたいと思ってて、60歳のころにはそれなりに形もできてるんじゃないかって……自分の音楽の旅がようやく始まったんですよ。20年後にまたインタヴューしてください(笑)」
橋の下世界音楽祭
SOUL BEAT NIPPON 2016
2016年5月27日(金)〜29(日)
愛知 豊田大橋 橋の下
27日 12:00〜 / 28日 10:00〜20:00 / 29日 10:00〜20:00
soulbeatasia.com

[出演]
TURTLE ISLAND / 阿波踊り太閤連 / 朝崎郁恵(奄美民謡唄者) / 平針木遣り音頭保存会 / 白崎映美 & 東北6県ろ〜るショー!! / OKI DUB AINU BAND / 盛島貴男(奄美竪琴) / 切腹ピストルズ / 羊歯明神Jr.(遠藤ミチロウ, 山本久土, 茶谷雅之) / THA BLUE HERB / 遠藤ミチロウ / プロジェクトFUKUSHIMA! 盆バンド / 久土’N’茶谷 / ノリパン(韓国農楽) / マルチーズロック(沖縄栄町市場) / T字路s / FORWARD / カンザスシティバンド / ギターパンダ / ぢゃん / ハシケントリオ / タテタカコ / BING(HE?XION! TAPES) / 大石始 / 風の音楽団 / 柳家睦 & THE RATBONES / 馬喰町バンド / ALKDO / 朴保 & Bodhidharma / 芳泉会 / ちんどん屋“嵐” / Personal Energy

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