大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第18回:リクルマイ
掲載日:2014年12月25日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第18回:リクルマイ
 2014年5月、リクルマイとThe Kによるライヴ映像が動画サイトにアップされた。曲名は「きたぐにのはる(仮)」。ウクレレとアコースティック・ギターによって静かに奏でられるその歌には、リクルマイの故郷、岩手県宮古市の震災後の風景が時に生々しく、時にユーモラスに描かれていた。その感動はまたたく間にSNSで拡散。その後各地のライヴでも披露され、大きな感動を巻き起こしていった。
 日本屈指のレゲエ・シンガーとして90年代から活動を続けてきたリクルマイ。彼女は近年、日本の民謡をテーマとするライヴ活動を行なっている。2012年に発表された前作『DUB IS THE UNIVERSE』では現代の日本社会に対する怒りがストレートに表現されていたが、このたび発表された5曲入りアルバム『きたぐにのはる』には東北の民謡や大正時代の壮士演歌をカヴァーした楽曲に加え、あの「きたぐにのはる」も収録。震災以降の彼女の葛藤と挑戦がここに結実している。
 取材場所にやってきたリクルマイはシックな着物姿。ただし、自分のファッションとしてしっかり着こなしているところがやはりリクルマイだ。民謡や壮士演歌も自分の歌として表現することのできる彼女の芯の強さは、その着こなしからも感じられた。
「民謡と出会ったことでかえってレゲエの偉大さを再認識したところもあるんです。レゲエ・ファンだけに歌ってるというわけじゃなくて、小さな子供やおじいちゃん・おばあちゃんに向けても歌ってるんだという意識になってきてるんでしょうね」
故郷・岩手県宮古市の景勝地「浄土ヶ浜」をバックに従兄弟と
――生まれは岩手県の宮古市ですよね?
 「そうですね。宮古市の光岸地という海の目の前の地区です。父方の親戚は漁業に携わる人が多くて、祖父は穫れた魚を出荷するための木箱を作る箱屋さん。でも、時代の変化で発砲スチロールが主流になってきたこともあって、私が3歳のころに廃業して山のほうに引っ越したんですね」
――じゃあ、宮古の風景といえば山のほうを思い出す?
 「宮古は海と山に囲まれた場所で、平地があまりないんですよ。私の家も山のほうにあるとはいえ、車で10分足らずで海まで行けたんですね。だから子供のころからしょっちゅう海で遊んでたし、文字通りのハマッ子という感じ」
――上京されたのは高校を卒業してからですよね。
 「そうですね。それまでずっと宮古だったので、ド田舎で純粋培養されました(笑)」
――上京するときは宮古に対してどういう思いを持っていたんですか。
 「それこそ中学に入るぐらいから洋楽の洗礼を受けて、地元のレンタル・レコード屋に通うようになったんですけど、ロックのカテゴリーのなかにボブ・マーリーのレコードを見つけたんです。それまでに聴いたロックのレコードで一番異質で“なんじゃこりゃ!”という感覚があって、それ以降、レゲエの虜になりまして。でも、レゲエを聴きたくても宮古にはクラブもなければレコード屋さんも少なくて。何か音楽に携わる仕事に就きたい、東京に行けば何かあるんじゃないか、そう思って上京することにしたんですね」
――まずは大学に進学されて。
 「そうですね。その短大の近くにお茶の水のディスクユニオンがあったので、バイト募集の面接に行って。ディスクユニオンの近くにはジャニスっていうレンタルCD屋さんがあるし、学生時代はディスクユニオンかジャニス、夜は下北沢のスリッツ(註1)に遊びに行くという毎日でした。当時は“知らない音楽を聴いてみたい”という思いが先行していて、自分で何かを表現したいとは思っていなかったんですけどね」
註1:スリッツ / 小沢健二小山田圭吾が出入りし、スチャダラパーTOKYO No.1 SOUL SETを育てた東京・下北沢のクラブ(当初の名前はZOO)。その歴史は書籍「LIFE AT SLITS」(P-VINE BOOKS)にまとめられている。
――そのころ宮古に対してはどういう思いを持っていたんですか。
 「そうですね……宮古にあまりにオシャレな場がなさすぎたから、“東京にはなんでもあってめっちゃ楽しい!”と素直に思ってましたね(笑)。当時の東京は90年代初頭、バブルが弾けた後だったけど、まだバブルの余力があって、すごく賑やかだった」
――当時、スリッツでDJやライヴをやっていた方って、地方出身の方も結構多かったじゃないですか。東京生まれ・東京育ちの方ばかりじゃなかった。
 「そうなんですよね。あの当時と今が決定的に違うのは、ネット文化がないということ。だから、地方にいた人の間で“東京の最先端の文化に触れたい”っていう気持ちがめちゃくちゃ強かったんだと思う。短大に入学した当時、同級生と話してても私のほうが東京の事情に詳しかったんですよ」
――ところで、当時民謡は……聴いてないですよね(笑)。
 「そうですね(笑)。まったく聴いていなかった。むしろ日本の音楽を避けていたぐらい。朝からリー・ペリーだのバニー・リーだのを聴いていたから」
――では、民謡に関心を持つようになったきっかけはなんだったんですか。
 「ホントここ3年のことで、それまでは盆踊りを通して有名な民謡を知ってるというぐらいの貧しい知識しかなくて。震災が起きてから3週間後に生まれ故郷の宮古市に帰ったんですよ。車のなかに物資とガソリンを積んでアスファルトのめくれ上がったベコベコの東北道を走って。マイクも持っていったんですけど、宮古の人たちは歌どころじゃなくて、まずはお手伝いに専念しました。そのとき商店街のオジさんから“炊き出しに行くから、呼び込みで何かやってくれ”と言われて、ライヴをやらせていただいたんですけど、自分のオリジナルをそこでやっても意味があると思えなかったんです」
――被災地支援のライヴをやった方はみなさんそう言いますよね。
 「そのときは子供たちが集まっていたので、ジブリの歌とかみんなが知ってるアニメソングを歌ったんです。そのとき考えたのは、“自分の世界観の押しつけじゃなくて、その場にいるみんなを楽しませるものをやりたい”ということだった。そのときは子供が相手だったからアニメソングを歌ったけど、お年寄りが相手だったら民謡を歌うべきなんじゃないかと思ったんですね」
――その後、継続して被災地支援のイヴェントにも出演されて。
2013年8月2日宮古市立鍬ケ崎小学校で行われた
仮設住宅に住む方々を招いてのチャリティショウ
宮古の小中学生のダンスチームMDIと共に
 「そうですね。宮古に育ててもらった人間として被災地支援はやっていかないといけないことだと思ってて。大きなチャリティー・ショウに宮古出身ということで出させてもらったことがあって、民謡歌手とかマジシャンの方が出てたんですね。そのなかのひとりに私と同じ岩手県出身の千田けい子さんという民謡歌手の方が出ていて、談笑しながらレゲエがこんな音楽だということを説明してたんですよ。そうしたら千田さんが“民謡のなかにもレゲエみたいな曲があるんだよ”と言うんですね。それが〈秋田音頭〉(註2)だった。……前置きが長くなっちゃったんだけど、ここからが本題(笑)」
註2:秋田音頭 / 秋田各地に伝わっていた即興的な唄が明治時代に統合されて作られたもの。SOUL FLOWER UNIONアラゲホンジもカヴァーしている。
――はい(笑)。
 「実際に〈秋田音頭〉を聴いてみたら、“こんなにファンキーな民謡があるんだ!”っていう目から鱗が落ちるような驚きがあって。そのときすぐに“これはレゲエに合うわ”と思ったんですね。〈秋田音頭〉は節回しがラップに近いので、私としてはとっつきやすかったんです。東北のなかでも秋田は明るくてファンキーなんですよね。〈秋田音頭〉にせよ〈ドンパン節〉にせよ。最初から難易度の高いものだったら尻込みしていただろうけど、秋田から入れたのは良かったと思う」
――ただ、「秋田音頭」には秋田弁特有のイントネーションがありますよね。あのノリを掴みにくくはなかった?
 「秋田と岩手の方言は比較的似てるんですよ。だから、意外とスッと入れました。もちろん方言でも違う部分はたくさんあるんですけど、“ズーズー”の訛り具合は似てるような気がする」
――「秋田音頭」の次にアプローチしたのは?
 「千田さんに月に2回民謡のお稽古をつけてもらってるんですけど、自分が東北の人間なので、東北の民謡を教えていただいてるんです。そのお稽古で習ったのは岩手の〈チャグチャグ馬コ〉(註3)や、秋田の〈ドンパン節〉の元になった岩手の〈ドドサイ節〉、あとは岩手のものとも青森のものとも言われている〈南部俵積み唄〉(註4)、そのあたりですね」
註3:チャグチャグ馬コ / 作詞・小野金次郎、作曲・小沢直与志。1965年に岩手国体のテーマソングとして使われた新民謡。なお、チャグチャグ馬コとは岩手県滝沢市と盛岡市で毎年6月に行なわれる祭りで、農耕馬に感謝する伝統行事。
註4:南部俵積み唄 / 家々の門口で歌われていた門付唄および祝い唄をルーツとするもので、青森県南部や岩手で歌われる。戦後レコードでリリースされたことで全国的に知られるようになった。
――被災地でそういった東北の歌を歌ってみて、みなさんからのリアクションはいかがでした?
 「とあるオジさんに“マイちゃん、変わったね”って言われたんですよ」
――変わった?
 「そう。向こうで私のことを知ってくれている人は本当にクラブ周りのお客さんとかごくわずかで、本当に末席のアーティストなんですよ。だから、私は被災地支援の活動のなかで“どうやったら楽しんでもらえるだろうか?”ということをすごく勉強させてもらったんです。“マイちゃん、変わったね”って言ってくれたオジさんも“やっと俺たちの側に来てくれたね”という意味だったと私は解釈してて。嬉しかったですね」
――ものすごく大きな変化ですよね。歌い手としての根本的な意識やあり方の変化というか。
 「そうなんですよ。ここ3年で歌い手として問われる場がとても多かった。被災地支援のライヴの場合、目の前のお客さんに手拍子をしてもらったり“いいぞ!”と言ってもらえなかったら自分としては負け。お客さんは正直だから、ダメだったら二度と呼んでもらえないですからね。そういう意味でも本当の意味で歌と向き合った3年だったし、どうやって音楽と関わっていくかということを問われた3年だったと思います」
――以前のマイさんはご自身が“レゲエ・シンガー”であるという自意識があったと思うんですね。“レゲエ・シンガー”であることはアイデンティティのひとつというか。そこからひとりの“シンガー”という意識が芽生えてきたということでもありそうですね。
 「そういう部分もある一方で、民謡と出会ったことでかえってレゲエの偉大さを再認識したところもあるんです。自分がレゲエから離れていくことは今後もないと思うんですけど、レゲエ・ファンだけに歌ってるというわけじゃなくて、小さな子供やおじいちゃん・おばあちゃんに向けても歌ってるんだという意識になってきてるんでしょうね。それは昔にはなかった感覚。レゲエはもう身に染み付いてしまったものでもあるので」
――ここ3年の大きな変化という意味では、ジンタらムータ桃梨などレゲエ以外のバンドやミュージシャンとの関わりが増えたということもありますよね。
 「そうですね。ジンタらムータとは都内の脱原発デモで一緒にサウンドカーにも乗りましたけど、添田唖蝉坊(註5)やバルカン・ブラスなど幅広い音楽を演奏してきた方々なので、“レゲエ以外にもこんなに格好いい音楽があるのか!”ということを教えてもらったんです。震災や原発事故は本当に不幸なことですけど、それをきっかけにした出会いは自分にとって宝物のようなものなんです」
註5:添田唖蝉坊 / 1872生まれ、1944年にこの世を去った明治〜大正の演歌師。社会風刺を盛り込んだ歌詞・活動から“元祖レベル・ロッカー”として近年再評価されている。
――ところで、和装をするようになったのはいつから?
 「(2014年)3月末のライヴから着物を着るようになったんですけど、最近どんどん調子に乗っちゃってて(笑)」
――普段から着物なんですか?
 「なるべく着るようにはしてますね。着物は帯で締め付けられているので、歌うときに抵抗感があるんです。だから、歌うときに問題ないよう慣らしておきたくて。着物は意外と暖かいし、慣れると着心地もいいんです」
――海外のライヴでも着ていらっしゃいますよね。
 「そうですね。着物を着てると圧倒的にウケがいいんですよ(笑)。台湾でもタクシーの運転手さんに“一緒に写真を撮ってくれ”って言われたり(笑)。ただ、小さなころから修練を積み重ねて民謡一筋でやってこられた方々と私は違うし、ポッと出の私がそういう方々と同じ顔をして民謡を歌うのはおこがましいので、“なんちゃって感”を出すために帽子を被ったり、少し外すポイントを作るようにしてるんです」
――今回のアルバム『きたぐにのはる』の印象と繋がるところでもあるんですけど、最近のマイさんのライヴ・パフォーマンスには“芸人感”がありますよね。添田唖蝉坊的な芸人感でもあるけども、同時にジャマイカのレゲエ・ディージェイ的な芸人感もある。いずれにせよ、ステージ上での立ち振る舞いが以前とははっきりと変わってきていますよね。
 「うん、そういう意識はありますね。それこそお笑い芸人というか……少し皮肉も入れながら笑わせるようなことをやりたい。それこそ添田唖蝉坊の歌は辛辣だけどユーモアがあって、時世を軽やかに切っていく。そういうことをできたらいいなあと。前作の『DUB IS THE UNIVERSE』は怒りが前面に出たアルバムで、聴く人が聴くと耳が痛いだろうと思うんですね。時として怒りをストレートに出すことはとても大事だけど、怒りが目的になってしまったらダメだと思っていて。怒りの高等な表現がユーモアであり、その高等なところにチャレンジしなきゃいけないと思ってるんですね。その意味ではこのアルバムが“デビュー戦”という意識があるんです」
「東京に出てきたころは訛りもひた隠しにして、都会らしい自分を作ろうとしてましたけど、今は“岩手出身のリクルマイでございます!”と自信を持って言える」
――せっかくなので『きたぐにのはる』の各曲解説をしていただきたいんですが……1曲目はさきほどから話に上っている「秋田音頭」。
 「秋田音頭を聴いたとき、パッと“これはスレンテン(註6)に合う”と思ったんです。他の曲もそうなんですけど、民謡ってレゲエのモンスター・トラックとすごく合うんですよ」
註6:スレンテン / ジャマイカのレーベル、ジャミーズから85年に発表されたトラックで、ウェイン・スミス「Under Mi Sleng Teng」などで使用されたダンスホール・レゲエの定番トラック。カシオトーンのMT-40という安価なキーボードのプリセット・リズムを元にして制作された。
――へえー、そうなんですか。
 「民謡は西洋的なコードやリズムでできていないから多少イジる必要があるんですけど、おおむねレゲエのベースラインと民謡のメロディラインの絡みはいいんですよ」
――レコーディング・メンバー(註7)のみなさんはレゲエのエキスパートばかりですけど、民謡レゲエのアイデアに関してはどう反応してました?
註7:レコーディング・メンバー / 『きたぐにのはる』のレコーディング・メンバーはリクル・マイ(ヴォーカル&ウクレレ)、The K(ギター)、森 俊也(ドラム)、河内洋祐(ベース)、田鹿健太(パーカッション)、ゲスト・ミュージシャンにジンタらムータの大熊ワタル(クラリネット)とこぐれみわぞう(チンドン太鼓)。
 「みんなおもしろがってくれましたね。ドラムとベースを録音する日は1日しかなかったんですけど、1日で5曲分撮ってしまった。さすがでしたね。森さんはリズム・パターンも研究されてる方なので、〈チャグチャグ馬コ〉のリムショットもすごく工夫してくれて」
――2曲目は福島民謡の「相馬盆唄」(註8)ですね。
註8:相馬盆唄 / 福島県相馬地方の盆踊り唄。美空ひばりや江利チエミもカヴァーした有名曲。
 「歌唱としては一番気に入ってますね。このリズム・トラックは“ダック”(註9)なんですけど、ドシドシ踊らせるレゲエの感じと“米が穫れたよ!”っていうありがたいメッセージが奇跡的な融合を果たしていて、自分でも気に入ってます。この曲には(こぐれ)みわぞうさんのチンドン太鼓と大熊さんのクラリネットを入れてもらったんですけど、それらが曲の底上げをしてくれたと思う」
註9:ダック / 86年にジャミーズから発表されたレッド・ドラゴン「Duck」などで使用されたトラック。制作はスティーリー&クリーヴィーで、こちらもダンスホール・レゲエの定番トラックのひとつ。
――この「相馬盆唄」、歌い出しのコブシが素晴らしいですよね。
 「自分に合ってたのかもしれないけど、無理なく歌えました。私の声はハイトーンなので幼稚に聴こえてしまうこともあるんですけど、民謡の先生に習ったことで声の出し方も変わってきてると思う。むしろ〈チャグチャグ馬コ〉のほうが苦戦しました。さすが作曲家先生が作った曲というか、メロディが練られてるんですよ」
――「チャグチャグ馬コ」は現代的というか、歌謡曲的ですもんね。CD版には3曲目に「チャグチャグ馬コ」が、デジタル・リリースされるほうには同トラックの「ドドサイ節」が入ってますけど、歌を変えた理由は?
 「〈チャグチャグ馬コ〉は作詞家作曲家の先生が作った新民謡なので、カヴァー曲の申請を出さなくちゃいけなかったんですね。その申請がなかなか降りなくて。それ以外の曲は著作権フリーだったんですけど。著作権が降りなかったことを想定して、〈チャグチャグ馬コ〉のトラックを多少手直しして〈ドドサイ節〉を吹き込んだんです。結果的に〈チャグチャグ馬コ〉の許諾も降りたんですけど、デジタルはダメだというので、CD盤には〈チャグチャグ馬コ〉を、デジタルには〈ドドサイ節〉を入れるという形で落ち着きました」
――なるほど。4曲目は添田唖蝉坊作の「のんき節」(註10)ですね。
註10:のんき節 / 先述した明治〜大正の演歌師、添田唖蝉坊が大正6年(1917年)に書いた歌。昭和に入ってから石田一松が自身で改作したものを浅草の劇場や寄席で歌い、庶民の間で支持を集める。社会や軍部を風刺した内容から、石田は一時寄席への出演を当局から禁じられていた。
 「西麻布の新世界というライヴハウスでジンタらムータと〈Rebel Music Party〉というイヴェントをやったことがあったんですね。そのときに私から “〈のんき節〉をやりたい!”と提案させてもらったんです。それ以前に土取利行さんが添田唖蝉坊の楽曲をカヴァーした作品集(註11)で添田唖蝉坊のことは知ってて。“100年前にこんなに今でも通じる言葉が詰まった歌があったのか!”といたく感動しましたね。それこそ唖蝉坊との出会いはボブ・マーリー以来の衝撃で」
註11:添田唖蝉坊の楽曲をカヴァーした作品集 / 70年代より国際的な活動を続け、80年代からは桃山晴衣と「立光学舎」を設立して日本の古層に眠る音を探求してきた音楽家、土取利行が、添田唖蝉坊と彼の長男である知道のレパートリーをカヴァーした『添田唖蝉坊・知道を演歌する』(2013年)。
――おー、そうですか。
 「同じ国にこんな人がいたのか、と。トンチが効いていてユーモアがある。辛辣なんだけど笑える。すごく魅力的に感じました。〈のんき節〉は民謡よりも自分に近い感じがしましたね。メッセージも私が言いたいことを表現しているし、とても楽しく歌えましたね。“こういうことをやりたい”というお手本というかね」
――しかし、まさか「プナニー」(註12)のリズムに乗ったのんき節を聴けると思いませんでしたよ(笑)。
註12:プナニー / 「のんき節」のトラックは、アドミラル・ベイリー「Punanny」などで使用されてきた定番ダンスホール・トラック“プナニー”。これもジャミーズのもとでスティーリー&クリーヴィーが制作したもので、現在まで星の数ほどのダンスホール・レゲエの楽曲で使用されている。
 「本当にねえ……“プナニー”に“スレンテン”に“ダック”ですからねえ(笑)。レゲエも民謡も両方“人間の営みの音楽”だし、かけ離れているようで温度は近いんだと思う。だから自然に溶け合うんでしょうね」
――ラストには唯一のオリジナル曲である「きたぐにのはる」が収録されていますが、これはいつぐらいに書いた曲なんですか。
 「『DUB IS THE UNIVERSE』を出してからの2年間は被災地を回ったり、脱原発デモで歌ったりしていたわけですけど、その間はまったく新しい曲が浮かんでこなかったんですよ。でも、今年(2014年)の2月ごろ、雪が降ってる日に突然歌詞が浮かんできて、自分でもびっくりするぐらいの早さで歌詞を書き上げてしまった。その歌詞にウクレレを弾きながらメロディを付けてみたら、いろいろな情景が浮かんできて自分で泣けてきてしまって……震災以降の記憶が自分の脳味噌のなかに蓄積されていて、それが一気に吹き出してしまったんでしょうね」
――歌のなかでは被災地のさまざまな人物の物語が描かれてますけど、実話に基づいているものなんですか?
 「そうですね。親戚のことだとか、リアルなことを書いてます」
――それぞれの人物に対してすごく愛情をもって書かれてますよね。それこそスナックのボヤキみたいなものも入っていて(笑)。
 「そうですね(笑)。この曲でもどこかに笑える余地が必要だと思っていて。被災地出身の人間としては自分の故郷に起きたことを全国の人たちに忘れてほしくないという願いもあるんですけど、それと同時に、聴く方が歌詞のなかの誰かに自分を重ね合わせられるものにしたかった。そういう意味では、被災地のことだけを歌ってる歌じゃないのかもしれない」
――現代の日本列島に生きる人たちの歌。
 「そうですね。日々過ごすなかで“なんて淋しい時代なんだろう?”と思うことが多くて。ネットで簡単に連絡を取れる反面、今はひとりひとり切り離されてしまっている。この歌は“みんな淋しいけど、春はきっと来るよ”という希望の歌にしたかったんです」
――この歌の歌詞のなかに“北国の民”という言葉がありますよね。マイさんは被災地の人々を“北国の民”として描いてますが、マイさんご自身も“北国の民”であって、アルバム全体を通して“北国の民”という視点は貫かれてますよね。
 「うん、そうですね」
――僕にはマイさんがどこから来た人間なのか、そこを意識するところからこのアルバムは始まっている気がするんですよ。
 「うん、確かにそれはあると思いますね。東京に出てきたころは訛りもひた隠しにして、都会らしい自分を作ろうとしてましたけど、今は“岩手出身のリクルマイでございます!”と自信を持って言える。岩手で生活していた時間よりも東京で過ごした時間のほうが長くなりましたけど、そのなかでいかにありがたいところで育ててもらったかということを理解できる年齢になったんでしょうね」
――今後の活動に関してはどういうイメージを持っていらっしゃいますか。
 「ありがたいことに仲間周りからもこのアルバムが大好評なので第二弾も作りたいと思ってるんですけど、もちろんリクルマイのオリジナル・アルバムも作りたい。私自身民謡歌手になりたいわけじゃなくて、“リクルマイの表現”をより良いものにしていくというのが目標なので、どちらもやっていけたらいいなと思ってます。民謡に触れたことで自分の世界が広がっているので、その視点からのストレートなルーツ・ナンバーにも挑戦したい。いまは理屈ぬきに音楽が楽しくなってるし、今後も精進していきたいと思います」
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