

ホール&オーツで名を馳せたジョン・オーツが米国ニューヨークに生まれる。大学在学中にダリル・ホールと出会い、お互いの音楽的趣味がよく合ったことから、デュオの結成へと至った。その後の活躍は目覚しく、6曲の全米No.1ヒット、トップ40入りは数知れず。どちらかと言えばダリルの影に隠れがちとのイメージもあるが、活動30年を経て発表した初ソロ作『ファンク・シュウェイ〜心のままに』(2002年)で聴かせたように、その才能に疑う余地はない。
甲斐バンドでの活動で知られる甲斐よしひろが、福岡県に生まれる。父親はラテン・バンドを率いるミュージシャンだったそうで、彼がはじめてギターを手にしたのは5歳の時だったという。高校生の頃から本格的に音楽活動を開始、地元の公開ラジオ番組に出演したり、ライヴハウスのオーディションを受けるなど、経験を積んでいった。74年に甲斐バンドを結成、同じ年にデビューを飾り、熱心なファン層を開拓。長きに亘って第一線で活躍する実力派である。
テクノ界の教祖、クラフトワークのフローリアン・シュナイダー、ドイツに生まれる。デュッセルドルフの音楽院で出会ったラルフ・ハッターとともに、クラシカルな楽器を用いることの限界から電子音楽を指向。“テクノ・ポップ”という言葉がまだ生まれていなかった時代に、ポップなメロディをもつ電子音楽を発表し、74年末には名盤『アウトバーン』でその名を一躍ワールドワイドなものにした。ちなみにYMOがデビュー作を発表したのは78年。彼らの最先端ぶりがわかるというものだ。

シャ乱Qのライヴツアー〈WELCOME MY TOWN〉スタート。'89年、しゅう、たいせー、はたけ、まこと、そして今やすっかり超売れっ子プロデューサーとなったつんくの5人でシャ乱Qを結成。まことは、家が火事に遭ったため初ライヴに参加できなかったとか。デビュー10周年を迎えてのこのライヴツアーは、北は北海道、南は鹿児島までを回り、大阪城ホールでは西川きよし師匠が飛び入り参加、大いに盛り上がった。ちなみに、この年ヒットしたパイレーツの〈だっちゅーの〉をつんくが言ってスベッたとか。
2003年4月7日、天馬博士が交通事故で死んだ息子・飛雄(とびお)にそっくりなロボットを作りあげた。そのロボットこそが、手塚治虫の名作『鉄腕アトム』の主人公アトム。“アトム”という名は天馬博士が付けたものではなく、アトムが成長しないことに腹を立てた博士がアトムを売り飛ばしたロボット・サーカスの団長が名付けた。なお、現実世界での出来事として、アトムは2003年4月7日に、埼玉県新座市(手塚プロの所在地)の市民に登録された。アニメ・キャラクターによる特別住民登録はこれが初めてのこと。

デイリー・エクスプレス紙、ポールとヨーコが協力してビートルズの楽曲の版権の買い戻しに乗り出したと報じた。2100ポンドの提示をした2人に対して、版権を持つグレード卿がさらに1万ポンドの上積みを要求したため交渉決裂となった。しかし、85年にビートルズの楽曲の版権をマイケル・ジャクソンが購入。82年に買い取りに失敗したポールのショックは大きかったようだ。その後、ポールとマイケルの親交は薄まってしまうものの、98年にポールからの呼びかけで和解した。