僕の昭和少年時代(絵と文 / 牧野良幸) 第11回 カラーテレビと僕のカラー体験

2019/08/27掲載
はてなブックマークに追加
第11回 カラーテレビと僕のカラー体験
絵と文 / 牧野良幸
近所でカラーテレビが増えてきた
僕が小さい頃はどの家庭もテレビは白黒テレビだった。しかし番組があまりにも面白かったので白黒でも不満はなかった。というか小さい頃は、カラーテレビというものがあることすら知らなかったのだ。どのあたりでカラーテレビ、それからカラー放送のことを知ったのかはさだかではない。
カラーテレビが僕の記憶にはっきりと登場するのは1968年(昭和43年)からになる。小学五年生の時だ。町内で駄菓子屋をしていた同級生のHの家でカラーテレビを見た。その年開催されたメキシコオリンピックの衛星放送だったと思う。
同じ年に、これも町内の同級生Kの家でカラーテレビを見せてもらったから、この頃が岡崎の庶民にカラーテレビが広まった時期かもしれない。
Kの家に遊びに行くと、お母さんが出してくれたカルピスを飲みながら、カラーテレビを見るのが楽しみだった。ビクター製のカラーテレビで、Kが色の調節の仕方をデモンストレーションしてくれた。
「ツマミを回して画面に出てくる緑のラインが細くなるようにする。ほしたら色調整が完了。色は人間の肌の色で確かめるんだわ」
「へー、赤とか青じゃなくて肌色か。確かに肌色なら色を決めやすいわ」
と僕は感心した。
Kとは今日まで付き合いがあり、中学生からはビートルズのレコード、TEACのオープンリール・デッキ、成人したあとも初代ウォークマンなど色々なものを見せてもらうことになるが(拙書『僕の音盤青春記』に書いた)、カラーテレビはその始まりだった。
ただ当時はカラーの番組はまだ少なかった(カラーの時は画面の隅に“カラー”の文字が出た)。色味も安定しなかったし画質も悪かった。総天然色に感動はしたものの、頭のすみに、これが最高の色ではないという意識もあった。
小学五年生の僕にどうしてそんな感覚があったのかというと、実はカラーテレビを目にする前に衝撃的なカラー体験があったからだった。話は数年さかのぼるが、その話も書いておこう。
息を飲んだカラー体験
それは小学三年生の頃だろうか、僕はおかあちゃんに連れられて行列に並んでいた。場所は自分の通う小学校の学区ながら、子どもには縁のない建物。他にも親につれられて子どもがたくさんいる。たぶん子ども向けの催しがあるのだろう。
建物に入ると、大きな部屋に座席が並んでいて正面にはスクリーンがあった。どうやら何かが上映されるらしい。照明が落とされると映画が始まった。それはアニメーションであったが、テレビで見たことがない、初めて見るアニメーションだった。それも白黒ではなくカラー。
オープニングからぶっ飛んだ。なんと綺麗な色だろう!
テレビの白黒のアニメと違うのはあたりまえにしても、映画館で見る怪獣映画のカラーとも違う。“総天然色”というのは実写に当てはまる言葉で、言ってみれば色の説明みたいなものにすぎない。しかしこのアニメーションは色が自己主張している。キラキラと輝いている。色だけで息を飲むほど感動したのは初めてだった。
それが手塚治虫の『ジャングル大帝』。
催しはたぶん試写会のようなものだったと思うのだが、それがテレビ放送前の試写会だったのか、劇場版映画の試写会だったのか、そこまではわからない。
今思うと『ジャングル大帝』はそれまでのテレビアニメを超えるクオリティだったと思う。とくに冨田勲の作曲した音楽が流れるオープニングは鳥肌ものだ。これをいきなり白黒の世界しか知らない子どもが見たのだから、強烈なカラー体験になったことは想像していただけるだろう。
日立のキドカラーがやって来た
話を1968年(昭和43年)に戻そう。
この年は三億円事件が起きて、3億(!)という金額の宇宙的な大きさに気絶しそうになったり、川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞して、漫画しか読まない僕でも誇らしかったり、といろいろな事件があったが、カラーテレビに関しても画期的な年であった。
同じ町内のKやHだけでなく、他の子どもからも「僕んち、カラーテレビになったよ」という自慢話がちらほら出てきた。そしてついに同じ年に、僕の家もカラーテレビを買ったのである。
といっても僕がおねだりしたわけではない。きっかけは家の新築だった。それまで住んでいた家屋は、戦争で焼けた後、おじいさんが廃材を集めてきて建てた家だった。それを壊して、おとうちゃんが新しく建て直したのである。
新しい家屋にはおとうちゃんの好みで、初めて洋間というものがこしらえられた。板張りの床、ソファ、シャンデリア風の照明、レースのカーテン、形だけだけれども暖炉、そして作り付けの棚には美術全集。テレビドラマでしか見たことがないモダンな部屋ができあがった。おとうちゃんは、その洋間を完璧なものにするためにカラーテレビを買ったのではないかと思う。
新しい家が完成したのが1968年(昭和43年)の暮れだったから、ちょうど冬休みだ。近所のいとこも新しい家を見ようとやって来て、みんなで洋間で遊んでいると、そこに電気店の人がカラーテレビを運んできたのである。カラーテレビを買うなんて一言も聞いていなかったので、これが年の瀬のウキウキした気持ちのクライマックスとなった。
我が家にやってきたカラーテレビは日立のキドカラーだった。
当時はナショナルのパナカラーが一番有名だったし、Kの家で見たビクターもシブいと思っていたのだが、なにせ突然カラーテレビが家に来てしまったのだから、親に文句も言えない。
実は僕の家の前には、通りをはさんで日立の電気店があり、常々
「電気製品は、向かいの◯◯さんで買わないと体裁が悪い」
とおかあちゃんが言っていたので、“大人の事情”も分かっていたのである。
しかしキドカラーも悪くなかった。パナカラーほど有名ではなかったけれど、キドカラーの宣伝も力が入っていた。なにせ飛行船の“キドカラー号”を飛ばしていたくらい。飛行船は岡崎にも飛んできて、ちょうど授業中に小学校の校舎の上を低空で通過ときには、初めて見る飛行船の圧倒的な姿に感動したものである。
キドカラーは性能でも悪くなかった。カラー調整は、Kの家のビクター製と違って、緑のラインがブラウン管上ではなく、チャンネルの上の専用の小さいディスプレイでできた。これは進化した技術だ、とニヤリとした。
UHF放送が受信できるチューナーもついていた。これでUHF放送が新しく始まったことを知ったわけであるが、ラジオのようなダイヤルをぐるぐる回しても、受信できるのは新しくできた中京テレビだけ。まだ放送時間が短く、やっていても他の局のお下がりのレトロな番組の再放送ばかり。UHFはオマケにすぎなかった。
しかしVHFなら愛知県はNHKを含めて5チャンネルあった。これらが、これからはカラーで見られるわけである。この日からキドカラーの前にかじりついたことは言うまでもない。
※ 掲載情報に間違い、不足がございますか?
└ 間違い、不足等がございましたら、こちらからお知らせください。
※ 当サイトに掲載している記事や情報はご提供可能です。
└ ニュースやレビュー等の記事、あるいはCD・DVD等のカタログ情報、いずれもご提供可能です。
   詳しくはこちらをご覧ください。
[インタビュー] Carpainter ジャパニーズ・テクノへの懐古と再構[インタビュー] chay 「今の時期だからこそ歌えた歌」心の成長や変化が昇華された新作
[インタビュー] みずからを解き放ち、どこへでも自由に羽ばたいて行ける――ミロシュの復帰第1作『サウンド・オブ・サイレンス』[インタビュー] 大阪在住の4人組、POP ART TOWNの1stアルバムに満ちるフレッシュなポップ・センス
[インタビュー] 大切なのは生活リズムのメリハリ。“睡眠研究の権威” 西野精治教授が監修する眠りと目覚めのクラシックCD[インタビュー] のろしレコード 松井文、折坂悠太、夜久一、シンガー・ソングライター3人が出会って生まれた歌
[インタビュー] ピアニスト、ユップ・ベヴィンが映画『楽園』に提供した寂しさと希望の共存する音楽[特集] 1日だけのポイントカラーを楽しむ毛髪着色料「PAF 1-day hair tint」×ファッション・アイコン「lol」が盛り上げる「特別な1日」
[インタビュー] インドで生まれ、アメリカで学び、現在は日本で活躍する異色のシンガー・ソングライター、teaがメジャー・デビュー・アルバム『Unknown Places』を発表[インタビュー] ジョヴァンニ・アレヴィ ポップからクラシックまでジャンルを横断するイタリア出身のピアニストの“愛のアルバム”
[インタビュー] 高野寛 デビュー30周年の締めくくりとなるアルバムは“今”を表現する原点回帰作[インタビュー] 第2番の協奏曲には“青年ベートーヴェン”の力強さがみなぎっている――ピアニスト児玉麻里、〈東芝グランドコンサート2020〉に出演
https://www.cdjournal.com/main/special/showa_shonen/798/f
e-onkyo musicではじめる ハイカラ ハイレゾ生活
Kaede 深夜のつぶやき
弊社サイトでは、CD、DVD、楽曲ダウンロード、グッズの販売は行っておりません。
JASRAC許諾番号:9009376005Y31015