[こちらハイレゾ商會]第80回 DSFで聴くキース・ジャレット『サンベア・コンサート』
掲載日:2020年6月9日
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こちらハイレゾ商會
第80回 DSFで聴くキース・ジャレット『サンベア・コンサート』
絵と文 / 牧野良幸
キース・ジャレットの『サンベア・コンサート』がDSF(2.8MHz/1bit)で配信された。
『サンベア・コンサート』は1976年11月におこなわれたソロ・ピアノによる日本公演をライヴ録音したアルバムで、京都、大阪、名古屋、東京、札幌の公演を収録している。発売時、LP10枚組というヴォリュームは圧倒的であった。CD化の際には本編5枚にアンコール曲を収録した1枚が追加された。ハイレゾ配信もCDと同様にアンコール曲を含んでいる。
実を言うと僕は『サンベア・コンサート』を聴くのは今回が初めてだ。そこで『サンベア・コンサート』までのキース・ジャレットの思い出から話を始めたい。
最初のソロ・ピアノによる作品である『ソロ・コンサート』(1973年録音)は、僕が高校生の時に発売になった。緑色の地に文字だけというEMIのデザインはオシャレだった。“すべてを包み込みとうとうと流れるキースのピアノ”というレコード会社のコピーは今でも名文だと思う。チック・コリアの影響もあって、当時ソロ・ピアノという言葉からはクリスタルな雰囲気が漂っていたものだ。
しかしさすがにLP3枚組では手が出ない。それでようやく買ったのが『宝島』(1974年録音)だった。Impulse!からリリースされたアメリカン・カルテットの演奏である。
しかしジャズの入門者だった僕は、それをECMのアルバムのつもりで買ったのがまずかった。クリスタルな音楽を聴くつもりが、アーシーな音楽が流れてきたのだ。混乱した。「買ったレコードは好きになるまで聴け」が当時の掟だったので、最終的に『宝島』は気に入ったものの、入門者は慎重にレコードを選ばないといけないなと反省した。
そういうこともあって名作『ケルン・コンサート』(1975年録音)はレコードが出た時の記憶はない。ちょうど大学入試で音楽どころではなかったこともある。『ケルン・コンサート』を初めて聴いたのは大学を卒業した年だから1980年だ。友人がLPを貸してくれた。もちろんすぐに気に入り、TDKの音楽専用カセットに録音して毎晩のように聴いた。
『サンベア・コンサート』もその時点で発売になっていたが、友人も『サンベア・コンサート』には手を出していない。やっぱり僕たち若造では買えないレコードだったのだ。
ならば中古レコードはどうか。『ソロ・コンサート』はあっさり買ったのに、『サンベア・コンサート』は相変わらず手を出さなかった。もうお金の問題ではない。実のところソロ・ピアノを聴く忍耐力は『ケルン・コンサート』でギリギリの長さだと思っていた。LP10枚ともなると気後れが先に立つ。そんなこともあって『サンベア・コンサート』は聴いてこなかったのだ。
しかし今回ハイレゾで初めて『サンベア・コンサート』を聴いたところ、非常に聴きやすかったのが驚きだった。京都の演奏はいいな。名古屋もいい。いや東京が一番かな、と最後まで飽きることなく聴き通せてしまった。5つの公演のすべての質が高いのも驚いた。キースはこのツアー中、集中力がよく持続したものだと感心する。CD化の際に追加された札幌、東京、名古屋のアンコール曲も素晴らしい。こちらは短い演奏でチャーミング。料理ならデザートというところか。
どの公演も演奏が始まると30分から40分近くノンストップだ。昔レコード会社が『ソロ・コンサート』のコピーに書いた“とうとうと流れるキースのピアノ”はこのアルバムでもあてはまる。そして『ケルン・コンサート』のようなロマンチックなメロディも随所で出てくる。
しかし『サンベア・コンサート』の演奏は前2作以上に深い。さらに深くソロ・ピアノの世界に没入している。ジャズだけでなくクラシックの要素も多くなった。ミニマル・ミュージックのようなところさえある。『宝島』のようなアーシーな要素も現れているようだ。この公演ではキースの音楽性のすべてが(意識下も含めて)10本の指に宿っていたのだろう。それでいて聴き手を飽きさせないのだから傑作と呼ぶにふさわしい。70年代はライヴ・イン・ジャパンの名作がたくさんあったが、LP10枚でも捨てトラックのないライヴ・イン・ジャパンは今後出ないと思う。
この長大なヴォリュームを苦もなく聴けたのは演奏もさることながら、録音が素晴らしいことも理由にあげられる。
大ヒットした『ケルン・コンサート』の魅力の一つに独特の音があったことは誰もが認めるだろう。だとするとハイファイ録音では“ひっかかり”がなさすぎて、長丁場では飽きてしまうのではないか。聴く前はそんな心配も持っていたのだが杞憂だった。いい音で録音された演奏は、聴く側も集中力が途切れない。そして楽しい。
このライヴを録音したのはオーディオ評論家としても有名な菅野沖彦氏ということは有名だ。キースのピアノ演奏は、通常のジャズやクラシックよりもダイナミックレンジが広い。特に打鍵音の衝撃とか、低音の厚み、和音の混み具合などはマンモス級だ。聴いていると頭の中のVUメーターが振り切れてしょうがない。こんな演奏を菅野氏は、よくぞ歪なく倍音も豊かに録音できたと感心してしまう。
言い方を変えれば「この音を録音するのはキビシイよ」と聴く者をのけぞらせる音が、家のシステムで再生できているということである。ハイレゾ、それもDSFで聴けることに感謝したい。アナログ・レコードでは歪みが心配だ(僕のシステムでは自信なし)。CDでは温かみや倍音で物足りないだろう。『サンベア・コンサート』を聴くなら、あらゆる点でDSFがベストだと思う。
DSFで聴くキースのソロ・ピアノは絶品である。高音質で“とうとうと流れる音楽”に何度でも身を投じたい。



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