[注目タイトル Pick Up] 愛情あふれる仕事で蘇ったルー・リード『New York』 / 『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ全曲』に聴く、神尾真由子が出会ったバッハ
掲載日:2020年10月27日
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注目タイトル Pick Up
愛情あふれる仕事で蘇ったルー・リード『New York』
文/國枝志郎


 ピンク・フロイド関連のハイレゾがほぼ時を同じくして2タイトル登場。2016年にピンク・フロイドの全カタログがソニーに移ってから、日本初出時の帯を完全再現した日本盤ならではのオリジナル・アルバム・アナログLPや、2017年にはバンド・デビュー50周年(!)を記念した紙ジャケット仕様CDがリリースされた際、それらのオリジナル・アルバムのハイレゾ配信も期待したのだが、残念ながら当時は実現せず。その代わり、2016年末にディスク27枚組という凄まじい物量で登場したレア音源集『The Early Years 1965-1972』の音源部分については、年代別にハイレゾ配信され、ファンを喜ばせた(ただ、不思議なことにバラ売りのもののスペックは44.1kHz/24bit、その中から27曲をセレクトしたベスト盤のそれは96kHz/24bitというスペックで、ファンを悩ませもしている)。その続編のボックス・セットも同様にハイレゾ配信(こちらは96kHz/24bit)が実現した。それでもまだオリジナル・アルバムの大半がハイレゾ配信されていないという状況は変わらず、早く改善してほしいと願うばかりなのだけれど、そんな中メンバーによるソロ活動のハイレゾ配信がこの秋に一気にふたつ、日の目を見たのは僥倖だ。ひとつはピンク・フロイドの頭脳とも言われたロジャー・ウォーターズの2018年のツアー『US+THEM』。もうひとつはドラマー、ニック・メイスンのニック・メイスンズ・ソーサーフル・オブ・シークレッツ名義による初のアルバムにしてライヴ作『Live at the Roundhouse』だ。ロジャー・ウォーターズのほうは彼のソロ作『イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・ウォント?』にまつわるツアーのうち、2018年6月のアムステルダムで行なわれた複数の公演からセレクトされたもの。ピンク・フロイドの名盤『狂気』『ザ・ウォール』『アニマルズ』『炎〜あなたがここにいてほしい』からのヒット・ナンバーが目白押しで、そのアップデートされた音作りから、ロジャーがアップデートを続ける先鋭的な音楽家であることが伝わってくる。もう一方のニック・メイスンのほうは、ユニット名がピンク・フロイドのアルバム『神秘(A Saucerful Of Secrets)』から取られていることからも推測されるように、ピンク・フロイド初期の曲にスポットを当てたライヴ。あまりライヴで聞かれたことのないナンバーも含まれており、サイケデリックな中にも現代的な音響工作が取り込まれているところがいい。この二つのライヴからは、両者のスタンス、音作りの違いなどが明確にわかって興味深いものがあり、聴き逃せない。ちなみにロジャーの配信スペックは48kHz/24bit、ニックのは96kHz/24bitだ。

Autechre
『SIGN』


(2020年)

 マンチェスターの二人組電子音楽ユニット、オウテカ。彼らの近年の作品はハイレゾ配信されていて、この欄でも出るたびに取り上げてきた。信じがたいほど広い帯域に及ぶ音作りに励んでいる彼らの電子音響工作は、きわめてハイレゾと親和性が高いと考えているので、できるだけ多くのリスナーに聞いてもらいたいと思っているのだが、しかしここのところの彼らのハイレゾ・リリースは……とにかく収録時間があまりにも膨大なものばかりだった。2018年の『NTS Session』はトータルタイム8時間、2019年の「AE_LIVE」は……じつに19時間のサウンド・トリップ! そのアブストラクトな音響彫刻は、もちろん素晴らしい作品だったわけだけれど、正直これをもってオウテカ入門というにはやや取っつきにくいものであったことも認めなくてはならないだろう。収録時間も、そしてお値段も、である。前者は1万円強、後者に至っては5万円弱というお値段である(バラ売りはあるけれど)。もちろん値段相応の価値はある内容なのは間違いないんだけれど。しかし今回の最新作にして、2013年の『エクサイ』以来ひさしぶりにフィジカルも同時リリースされる12作目(フィジカルのみの換算)となるアルバム『SIGN』は、常識的収録時間(1時間強)である。ここしばらくの音楽的実験の延長線上にあることを間違いなく感じさせ、その成果を十分に咀嚼して濃縮しつつ新たな地平に進んだことを示した素晴らしい作品となっているのだ。オープニングの「M4 Lema」の冒頭こそアブストラクトでインダストリアルな質感の電子音が流れ出すが、やがてパッドの持続音とヒップホップ・ビートがそれに加わると、続く「F7」はこれまでになく豊かなメロディとハーモニーが聴かれる。「si00」は、エイフェックス・ツインの別名義ポリゴン・ウィンドウのミニマル・アンビエントを彷彿させる。「esc desc」などは、壮大なストリングスがまるでサウンドトラックのようだし、「Metaz form8」やラストの「r cazt」などは、最近のオウテカでは聴けなかった叙情的なアンビエント・トラックである。ここで聴ける音楽はけっしてとっつきにくいものではない。しかもなお、ショーンとロブの二人の音楽が聴き手に未知の領域を案内するようなものであり続けていることはさすがとしか言いようがない。彼らの世界への入門として、このハイレゾ(44.1kHz/24bit)はおすすめです。


 ルー・リードが1989年に発表したアルバム『New York』の、待望のデラックス・エディション(3CD、2LP、DVD)が発売となった。うれしいことにその3枚のCDに収録された42曲がハイレゾ(96kHz/24bit)でも配信された。42曲の内訳だが、最初の14曲がオリジナル・アルバムのリマスタリング音源。続く14曲はパッと見はオリジナル・アルバムと同じ曲が同じ曲順で並んでいるが、複数の公演からピックアップされたライヴ音源で構成されたライヴ版『New York』である。そして最後の14曲はデモ音源や初期ヴァージョンなど、貴重な音源を収録したボーナス・トラックだ。この『New York』というアルバムは、それまで在籍していたRCAからワーナー傘下のサイアーに移籍しての第1弾である。シンセサイザーの打ち込みやサクソフォーンなどを導入したRCAでのラスト・アルバム『Mistrial』(1986年)から心機一転。マイク・ラスケのギター、ロブ・ワッサーマンのベース、フレッド・マーのドラムス(一部ドラマーにヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の盟友モーリン・タッカーが起用されている)というシンプルな編成で、ルー・リードが愛してやまなかった街ニューヨークを舞台にしたストーリーを描いた彼の代表作と言える作品であるが、意外なことに今回が初めてのリマスターになるという。じつはこのアルバムのハイレゾ版は、2015年5月にすでに配信されていたのをご存じのファンもおられるかもしれない。その時は96kHz/24bitと192kHz/24bit、のちにMQA版も配信されたのだが、あれはリマスターではなかったのか……。今回のリマスターと聴き比べてみたところ、やはり今回のほうが音の深み、広がりなどすべての面で圧倒的に素晴らしいことがわかった。今回の配信スペックは96kHz/24bitのみであるが、ノン・リマスターの192kHz版を軽く上回る上質なサウンドが聞ける。今回のリイシューにおいては、先ごろ惜しくも亡くなったハル・ウィルナーやルーのパートナーだったローリー・アンダーソン、ルーのアーキビストであるドン・フレミングらがプロデューサーとして関わっており、その愛情あふれる仕事がこの今聴いてもまったく古びれていないサウンドに結実していると言えるだろう。


 初音ミク主演によるボーカロイド・オペラ『THE END』や、AI搭載の人型アンドロイドがオーケストラを指揮しながら歌うアンドロイド・オペラ『Scary Beauty』、仏教音楽・声明とエレクトロニクスによる『Heavy Requiem』といった、前人未到のアートに次々に手を染めていく独創的な音楽家、渋谷慶一郎による、ピアノ・ソロ・アルバムのハイレゾ(48kHz/24bit)である。渋谷作品のハイレゾ配信としては、2014年にパリのシャトレ座で行なわれたライヴをDSDで収録した(エンジニアはハイレゾ・マスター、オノセイゲン)『ATAK022 Live in Paris』(DSD2.8&5.6、PCM96kHz/24bit & 192kHz/24bit)があったが、これはアコースティック・ピアノとコンピュータによる電子音響がミックスされた音楽であった。彼の純粋なピアノ・ソロ・アルバムは2009年に発表された『ATAK015 for maria』があったが、こちらはCDのみでハイレゾ・ヴァージョンはいまだ存在していない。このアルバムもまたオノセイゲンの手でDSDレコーディングがなされているもので、いつの日かハイレゾ配信が実現しないだろうかと待ちわびているところでもある。さて、そんな中に突然届けられたこの渋谷による新しいピアノ・ソロ・アルバムである。9月25日から公開中の映画『ミッドナイトスワン』(草剛演じるトランスジェンダーの主人公と親の愛情を知らない少女の擬似親子的な愛の姿を描いた内田英治監督によるドラマ)の音楽を渋谷は担当しているが、このアルバムはそのサウンドトラックを、ピアノ・ソロ用に再構成したものだという。映画は未見なので、サウンドトラックとどのくらい違いがあるのかはわからないが、このアルバムを聴いていると、おそらく映画で描かれるであろう心象風景のようなものが見えてくる気がするのもたしかである。『ATAK015 for maria』は、ある人物の死を契機に作られたアルバムだったが、そこにあるのと同質の“凄み”を、僕はこの『ATAK024 Midnight Swan』にも聴く。この凄みがあってこそ、深い美しさが際立ってくるのだと。


 最近、ちょっといい感じのDSDが少ないなあと思っていたところに現れた素敵DSDアルバム! しかもDSD5.6というハイスペックなのがうれしい。この作品はHD Impressionという会社からの配信なのだが、その代表を務められておられる阿部哲也さんという方の名前を拝見し、思わず膝を打った。阿部さんといえば、“アジアのHi-Fiクイーン”として有名になった藤田恵美さんのcamomileシリーズを手掛けられた人物である。そのcamomileシリーズからセレクトされたベスト・アルバム『camomile Best Audio』は、音楽性もさることながら、音質の素晴らしさは今でも自分のオーディオのリファレンスとして愛聴させていただいているくらいである。藤田さんの最新作『ココロの時間』も、素晴らしいDSDサウンドを堪能できる作品だった。そんな信頼できるレーベルからのリリースとなった山田貴子Trioのアルバム『Remembrance -記憶-』は、このトリオにとって7年ぶり4作目となる作品だという。山田貴子は国立音楽大学ピアノ科とボストン・バークリー音楽大学を卒業、自身の名を冠したTrioのほか、ヨーロピアン・ジャズを志向するトリオ、Tre fargerやヴァイオリンとのデュオ・ユニットPainting of Notes、こちらもトリオ編成のtryphonic、ソロなど、多方面に活動を繰り広げているようだが、ハイレゾとしては山田貴子Trioのアルバムが本作も含めて2枚、ソロ名義のアルバム『The Flow Of Time』が1枚、DSDも含む高音質での配信がなされているので、このアルバムが気に入ったらぜひ聴いてみてください。この新作『Remembrance -記憶-』は、ベースに清水昭好、ドラムスに勘座光を迎えた新生Trioでのパフォーマンスとの由。カヴァー曲なし、全編山田のオリジナルを、美しいジャケット写真を眺めながらDSD5.6サウンドで楽しむのはまさに至高の体験だ。

『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ全曲』に聴く、神尾真由子が出会ったバッハ
文/長谷川教通


 神尾真由子は「バッハを神格化せずに、バロックらしい軽い感じで弾きたい」と言う。オールドファンなら学校の音楽室に作曲家の肖像が貼られていたのを覚えているだろうか。そこには「楽聖バッハ」などと書かれていたのではないだろうか。「楽聖バッハ」は神のような存在。よほど勉強し、人生の経験を積まなければ弾くに値しない……とくに日本ではそんな風潮が根強かった。若い演奏家にとって、そんなものは呪縛にしかならない。21歳でチャイコフスキー国際コンクールを制した神尾。その後の努力がどれほど厳しかっただろうかと思う。
 あれから10数年、さまざまな経験を積み重ねてきた彼女がいよいよバッハのパルティータを弾く。多様な舞曲を取り込みながら、バッハの作曲技術の粋が詰まった作品たち。まずパルティータ第3番の「プレリュード」から聴こう。鮮度の高い音色が飛び出してくる。そして速いテンポと躍動する音符たち。神尾の弓はどんなに高速で弾こうとも、まるで弓が弦に吸い付いているかのように明瞭で精度が高い。すばらしい音色だ。つややかで刺々しさがまったくないのに繊細そのもの。高音域はもちろん低音域の充実した鳴りがしっかりしていて、バッハが仕掛ける対比する旋律の面白さや醍醐味が聴き手の感覚を刺激する。重音にも濁り感がなく多彩な和音が再現される。ここにはどこか遠い存在の楽聖バッハではなく、彼女自身が出会ったバッハがある。「軽く弾きたい」という意味は、既成の概念や思い込みを脱して、自分の中に湧き上がる想いや感動を表現したいということ。それを聴き手に伝えようとテクニックのすべてを駆使する。パルティータ第2番の「シャコンヌ」で聴かせるものすごい集中力、そして燃焼度の高い演奏に圧倒される。2020年6月浜離宮朝日ホールで2日間でのセッション録音だが、テイク数を最小限に抑えて、まるでライヴのような勢いがそのまま音となって収録されている。楽器は1731年製作ストラディヴァリウス「Rubinoff」だが、神尾の真骨頂とも言える、密度があって強い表現意欲を感じさせる「音色」をみごとに捉えている。同曲の録音中、最上級の演奏と言える。無伴奏ソナタ集の登場を期待して待ちたい。


 ウィーンのシンボルともなっている聖シュテファン大聖堂。この街を旅した人ならかならず立ち寄るだろう。その西側の中二階にあった「リーゼンオルゲル(1886年設置)」と呼ばれる巨大なオルガンは、第二次大戦末期に大聖堂の屋根が落ちたことで壊れてしまった。その「リーゼンオルゲル」が75年ぶりに修復されてみごとに蘇ったのだ。このアルバムは、全世界に向けてのお披露目にもなるもので、新しいオルガンの音色と多彩な音楽に対応できる能力を発揮させるプログラムとなっている。冒頭はやっぱりこの曲だろう。バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」。出だしの華麗で荘厳な和音の素晴らしさ。そして徐々に低音に向かって移行する音色の深々とした表情が聴きものだ。スペインやイタリア系のオルガンとは趣が違って、華麗な高音域にはいくぶんマットな感触があり、中音域から低音域にかけての厚みのある響きが印象的だ。修復&製作はオーストリアのRiger社だという。ウィーンの伝統が守られているのはさすがだ。とくにカンタータで聴かせる木管系の音色が美しい。さらにエルガーの作品が続き、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」のメインテーマが壮大なスケールで演奏される。さあ、あなたのスピーカーはこの鮮烈なサウンドを濁ることなくきれいに分解できるだろうか。録音は中高域のサウンドの渦の中でもしっかりと鳴る重低音域を収録している。この地を這うような音階をクリアに出せるだろうか。オーディオ・ファンにとっても、聖シュテファン大聖堂の空間を揺るがす響きの醍醐味とクオリティの高い音質は最高のチェック音源になるに違いない。


 『The Messenger』は、プログラムの最後に置かれたヴァレンティン・シルベストロフの作品名からとられたアルバム・タイトルだ。エレーヌ・グリモーが以前からシルベストロフの音楽にのめり込んでいるのはよく知られている。モダニズムが混迷をきわめる中、袋小路に陥ってしまったかに見える潮流から幾筋もの新しい流れが現れてきたが、そうしたポスト・モダニズムの作曲家たちの中で屈指の実力を持つとされるシルベストロフ。1937年ウクライナのキエフ生まれだ。1970年以降それまでの前衛的な作風を放棄し、過ぎ去ったものや誰の心にも存在する原風景への回帰、望郷といった心象へアプローチする作風へと移行する。それは効率という強迫観念に苛まれ、進化と発展により人間性が失われる現代社会への静かで痛烈な抵抗なのだろうか。幼い頃から社会や人間関係に苦しんだグリモーが、そうしたシルベストロフの音楽に共鳴したのは必然なのだろう。
 妻ラリッサ・ボンダレンコを失ったことをきっかけに作曲された「The Messenger」のテーマはモーツァルトを連想させる。このアルバムでは、グリモーはモーツアルト未完の幻想曲K.375から弾き始める。ペダルを巧みに使った透明感のある響きが、とても、とても美しい。いっきにグリモーの感性に魅入られてしまう。曲は未完のまま、同じニ短調のピアノ協奏曲K.466へと切れ目なくつながる……このアイディアはすごい。指揮者なしのカメラータ・ザルツブルクとの心通わすコラボが素敵だ。幻想曲K.475を過ぎて、いよいよシルベストロフの世界へと誘われる。ピアノと弦楽による「The Messenger」の郷愁を呼び覚ます音楽の魔力。モーツァルトのイメージはエンディングのピアノ・ソロで聴いたほうがわかりやすいだろう。その間に挟まれた「2つのディアローグとあとがき」の響きは、おそらくシルベストロフ初体験のリスナーもその魔力に取り憑かれてしまうのではないだろうか。静かに流れる時間。心の片隅に置き忘れていた懐かしい風景に、ふと気がつくかもしれない。


 モーツァルトがピアノだけでなくヴァイオリンの達人でもあったことはよく知られているが、彼の書いたヴァイオリン協奏曲、当時はどんな音色だったんだろうね? そんな興味を持つモーツァルト・ファンに朗報だ。何とモーツァルトがザルツブルクの宮廷オーケストラのコンサートマスターをしていたときに弾いていたヴァイオリンによる録音だというのだ。演奏はウィーン・フィルのメンバーでもあるクリストフ・コンツ。1987年ドイツ、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、オーストリア=ハンガリー系音楽一家に生まれ、6歳でウィーン音楽大学に入学、現在はウィーン・フィルの第2ヴァイオリン首席奏者。しかも9歳の時、フランソワ・ジラール監督の映画『レッド・バイオリン』で神童カスパー・ワイス役を演じていたというから驚き。ちなみに兄のシュテファン・コンツはベルリン・フィルに在籍する名チェリストだ。
 そんなウィーンの伝統を引き継ぐクリストフ・コンツでモーツァルトが聴ける。楽器は18世紀初頭にクロッツ・ファミリーの工房で製作されたという。モーツァルトは1773年、75年に5曲のヴァイオリン協奏曲を書いているが、おそらくこのヴァイオリンで弾いていたものと思われる。小さな変更はあるものの、オリジナルの状態が良好に保たれているという。まずは聴いてみる。ストラディヴァリウスが黄金の輝きとすれば、クロッツはシルバーだろうか。とても心癒やされる音色がする。コンツはバロック弓を使い、ピッチもやや低めで当時の演奏様式(アッポジャトゥーラなど)を取り入れている。オケはルーブル宮音楽隊(Les Musiciens Du Louvre)で、オリジナル楽器での演奏だ。いつもはマルク・ミンコフスキの指揮で活動するが、ここではコンツが指揮を兼ねる。コンツが語っているように、モーツァルトがヴァイオリン協奏曲を作曲するにあたって、このクロッツが与えた影響は大きいだろう。彼が好んだコロコロと転がるような音の連なりがとてもきれいに聴こえる。けっして大きな音量でソロの存在を主張するわけでないが、モーツァルトの可笑しさも哀しさも包み込むような音色が心に染み入る。オリジナル楽器のアンサンブルも刺々しさをともなった響きや強調されたアクセントとは違って、低音部をしっかりと鳴らした深みのある表情。これぞモーツァルトを聴く愉悦!

 毎月アップロードされてきたコンスタンティン・シェルバコフによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集が完結した。ベートーヴェン・イヤーを飾るにふさわしい真打ちの登場だ。彼は1963年シベリアのノヴォシビルスク近郊生まれだから、いま50歳代の後半というピアニストとして脂ののりきったピークにあると言えそう。1983年にモスクワで開催された第1回ラフマニノフ・コンクールで優勝し、圧倒的なテクニックの持ち主として世界的に注目される。NAXOSレーベルには超絶技巧で知られるゴトフスキーのピアノ曲全集とか、リスト編曲のベートーヴェン交響曲全集などの録音があり、日本では超絶技巧派というイメージが先行しているが、けっしてそんなイメージで片付けられるピアニストではない。
 このピアノ・ソナタ全集は「Steinway and Sons」レーベルで、2019年10月から2020年の6月という最新の収録だ。彼が活動拠点とするチューリッヒのスイス放送協会スタジオでのセッションで、ほぼ曲の番号順のどおりに演奏されたようだ。ただ、後期の8集と9集の第28番から第32番までは、ヨーロッパにおける新型コロナウイルス感染拡大の影響でボスヴィルの旧教会での録音となったようだ。この教会は音響の良さで定評があって、そうなると第29番の「ハンマークラヴィーア」がどうなんだろうと聴いてみたくる。まず冒頭の和音の強靱さ。打鍵の強さが圧巻だ。これがシェルバコフか! と、まるでエネルギーが迸り出るようなすごさなのだ。しかも、和音の隅々まで混濁がない。タッチが明瞭で曲の構造がくっきりと浮き出してくる。基本的にはテンポを大きく動かすことはないものの、わずかな揺らしやタッチの変化で情感を表現する。そこが巧い。ベートーヴェン後期のアダージョは、もう異次元の美しさだから過剰な表情付けは必要ない。音楽そのものに語らせばいい。録音の良さもあって、シェルバコフが右手で奏でるピュアな美しさが際立っている。中期の名作で聴かせるエネルギッシュでスケールの大きな演奏も聴きもの。たしかにロシアという文化が育んだピアニズムの伝統が生きていると感動させられる。

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