[こちらハイレゾ商會]第94回 アンドラーシュ・シフの弾き振りによるブラームスがお好き
掲載日:2021年8月10日
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第94回 アンドラーシュ・シフの弾き振りによるブラームスがお好き
絵と文 / 牧野良幸
ハンガリー出身の名ピアニスト、アンドラーシュ・シフがブラームスのピアノ協奏曲第1番と第2番を録音した。シフはピアノを弾きながら指揮もしている。収録は2019年12月、アビイ・ロード・スタジオ。リリースは高音質ジャズで有名なECMだが、このレーベルがクラシックでも積極的なリリースをしていることは音楽ファンならご承知だろう。ハイレゾでの配信はflacとMQA。どちらも96kHz/24bitだ。
シフがこの録音で使用したピアノは、1859年頃に制作されたブリュートナー社によるオリジナル楽器だという。ちょうどブラームスがピアノ協奏曲第1番を作曲した時代に作られたピアノなのだそうだ。オーケストラのエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団もオリジナル楽器による集団。つまりこれはブラームスの時代の響きを聴かせてくれる録音なのである。
今日オリジナル楽器による演奏は珍しくない。にもかかわらず、シフの弾き振りによるブラームスはとても新鮮だった。オリジナル楽器の音色も素晴らしかったし演奏も素晴らしかった。
しかしシフの話に入る前に、僕のブラームスに関わるオーディオ話をまず書いてみたい。
20年前、現在のマンションに引っ越した。その際に僕は部屋の一つを防音室にした。専門の業者に施工をお願いしたのだが、施工にあたってこちらの要望はコンセントの数と設置場所くらいで、あとはおまかせだった。
工事は1日半で終わった。確か工事が済んでからのことだ。それまで何度も会って打ち合わせをしてきた担当の人に、お礼の意味も込めて僕はこう言った。
「これで気兼ねなくヴォリュームをあげて聴くことができます。たっぷりした音でブラームスを聴くのが夢だったんですよ」
「えー、そうだったんですか!?」
それを聞いて担当の人が声を上げたのを覚えている。僕の口からブラームスという言葉が出たのが意外だったのだろう。なにせ打ち合わせの時には、「防音室ができても今までのステレオを使います(それは80年代初頭のしょぼいシステムステレオだ)、まずは大音量を味わいたいのでね」と言っていたのだ。
ロックを大音量で聴きたい中年男。相手にはそんなイメージだったのではないか。そんな男が突然ブラームスと言い出したものだから、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたのも無理はない。
でも本当にヘッドフォンから解放されて、自由に音を出せる部屋を持てたら、ブラームスの交響曲をたっぷりと鳴らしてみたいと思っていた。交響曲なら誰の曲でもいいはずだが、ベートーヴェンではちょっと薄いしワーグナーやマーラーでは派手すぎる。その点ブラームスは弦楽器が重厚ながら節度がある。管楽器も同系色で染まる。スピーカーで鑑賞するにはぴったりではないか。
つまり僕もオーディオ・マニアだったということだ。その証拠に防音室を作ってすぐに大音量だけでは物足りなくなり、ステレオ・システムを買い替えた。
スピーカーは部屋の広さからブックシェルフで十分だったのだが、ブラームスが頭にあったので、オーバーフローにもかかわらずトールボーイ型にした。B&W 804だ。アンプもCDプレーヤーも買い替えて総入れ替えとなった。アンプはその後さらにアキュフェーズに替えたが、この時も念頭にあったのはやはりクラシックの再生、特にブラームスである。
かくして防音室の完成後は、念願がかなってブラームスの交響曲やピアノ協奏曲を満喫してきた。ベルリン・フィルやウィーン・フィルの豊穣なブラームス、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の濃厚なブラームス。これらを聴くにつけ、オーディオにお金を注いでよかったなあと思ったものである。
さて、ここからがシフの話。
今回シフが録音したピアノ協奏曲は、僕が聴いてきたブラームスの響きとだいぶ違っていたのだから驚いたのである。オリジナル楽器は昔から僕も好きなので、あらかたどんな音になるか予想したのだが、それを超えて新鮮だったのだ。
オーケストラはブラームス特有の重厚さがあるものの重たくない。木漏れ日のように余白が感じられる。
シフの弾くピアノもブラームスの時代のオリジナル楽器だから、モーツァルトやベートーヴェンの時代のピアノフォルテほどではないにしても、どこか“ペタペタ”したニュアンスがある。現代のスタインウェイの強靭な音圧はここにはない。どこか非力な音だ。それだけにブラームスの書いた旋律がロマンを帯びて立ち昇る。
ロマンティックなのはオーケストラもだ。一般にブラームスというと枯淡の境地という印象だが、シフの指揮ではワーグナーばりに熱い。シフは昔のバッハのピアノ演奏から、端正な演奏家のイメージだったのだが、それを覆す熱い演奏だ。次は指揮者として指揮台に立ってブラームスの4つの交響曲を録音してほしいくらいだ。
オリジナル楽器によるブラームスも今日珍しくないだろう。しかしそこにシフの熱い演奏が重なって、今までの名盤を差し置いて、僕の中ではこのシフの演奏が一番のお気に入りになった。
最近のクラシックの新譜は、音が良くても、演奏で昔の名演を超えるものがなかなか出ない中、これは珍しいことだ。仮に今防音室を作るとしたら、施工業者の人には、“アンドラーシュ・シフのブラームスをたっぷりした音量で聴くのが夢なんですよ”と言うに違いない。もちろんそこで再生するのはハイレゾである。


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