[こちらハイレゾ商會]第95回 オーディオ的にも到達点の『オール・シングス・マスト・パス』
掲載日:2021年9月14日
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こちらハイレゾ商會
第95回 オーディオ的にも到達点の『オール・シングス・マスト・パス』
絵と文 / 牧野良幸
ジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』50周年記念エディションが出た。スーパー・デラックス・エディションと通常エディションがあり、ハイレゾはどちらも192kHz/24bitと96kHz/24bitの2種類だ。flacとMQAで用意されている。
僕が中学生の時、『オール・シングス・マスト・パス』はまったく手が出せなかったレコードだった。発売の翌々年の1972年のことである。当時僕らのような中学生が買えるのは2枚組の“ホワイト・アルバム”まで。ビートルズ好きの級友たちも『オール・シングス・マスト・パス』だけは買っていなかった。
みんなが買えないなら心は乱れない。しかしこのアルバムは発売時にチャートで1位になったのである。大人たちは買ったのだ。3枚組のレコードが買える大人の経済力を羨ましく思ったものである。
あれから半世紀経ち、僕も還暦を過ぎた男である。とっくに『オール・シングス・マスト・パス』に物怖じする年齢ではない。大人買いもなんのその。むしろ50周年記念エディションのような豪華版を待ち焦がれるようになった。
この50周年記念エディションはジョージの息子ダーニ・ハリスンの監修のもと、ポール・ヒックスがオリジナル・アナログ・マスター・テープから新ミックスを制作した。ヒックスはジョン・レノンの『ジョンの魂』や『イマジン』の新ミックスも手がけた人なので、その仕事は信頼できる。
ただ一抹の不安もあった。『オール・シングス・マスト・パス』はフィル・スペクターの作り上げたサウンドが特色だ。新しいミックスでその雰囲気がなくなっては寂しい。でもスペクター色のない音で聴いてみたいという欲望がないでもない。ジョージも生前いくつかの曲を分厚い音から解放したい、と言っていたらしい。
このように期待と不安の混ざる新ミックスだが、結論を先に書くと新ミックスはとても気に入った。フィル・スペクターの作り上げた雰囲気はそのままに、より聴きやすくなった印象である。新しいミックスを集合写真にたとえるなら、ジョージには一歩前に出てもらい、ヴォーカルを目立つようにし、後ろのメンバーは整理、必要な人は目立たせる、といった感じだ。
そもそもオーディオ・マニアにとって『オール・シングス・マスト・パス』は問題のある音を含んでいた。フィル・スペクターの特徴であるウォール・オブ・サウンドの部分である。もっとも顕著なのが「ワー・ワー」だろう。オーディオ・マニアの嫌う、いわゆる“ダンゴ状態”の音である。
その分離の悪い音をロック好きの部分では面白がれても、オーディオ好きの部分ではなんとかしたくなる。アルバムを少しでも分離のいい音、解像度の高い音で再生するのが、これまでの僕のアナログによる“『オール・シングス・マスト・パス』史”だったと言える。
音質改善はレコード盤の選定からはじめた。本当はUKオリジナル盤がほしかったが、オリジナル盤は高価で手に入らないのでUS盤で妥協した。そのあとレコード・プレーヤーをガラード301にしたり、カートリッジをオルトフォンにしたり、アンプをアキュフェーズにしたりと、システムをグレード・アップするにつけ再生音をチェックした。こうしてダンゴ状態だった「ワー・ワー」が、なんとか分離感が出てきたかも……というところまで持ってきた。
しかし、そのアナログでの長い格闘も今回の新ミックス(のハイレゾ)で終止符を打った感がある。新ミックスによる「ワー・ワー」はウォール・オブ・サウンドでありながら、分離感もあるのだから驚きだ。ジョージのヴォーカルが綺麗に浮かび上がる。バックの“ワー、ワー”というコーラスも確実に聴こえるようになった。
オリジナル・テープにさかのぼり、デジタル技術を駆使して仕上げた新ミックス。この音を聴いたら、オーディオ・システムのグレード・アップで出してきた音では追いつけない。レコードだけでなく、今まで配信されていたハイレゾと比べても違う。
「ワー・ワー」以外の曲にも触れておこう。「アウェイティング・オン・ユー・オール」は、オリジナルではお風呂の中で演奏しているかのような残響音だったが、新ミックスでは残響を浅くし、これもジョージのヴォーカルを前面に引き出した。バック・コーラスもきれいだ。ここまで音響を変えたにもかかわらず、フィル・スペクターの作った雰囲気は残っている。
アルバムにはウォール・オブ・サウンドとは対極のカントリー風やフォーク調の曲もある。「イフ・ノット・フォー・ユー」や「アップル・スクラッフス」がそうだ。こちらは音が少ないだけに分解能は申し分ない。ふくよかな音が音場いっぱいに広がる。ヴォーカルが鮮明だとジョージの歌う泣きのメロディがより鮮明になる。「サー・フランキー・クリスプのバラード」は、バックの謎めいた男性コーラスが大きくフィーチャーされ、曲の個性が際立った。
もちろん「マイ・スウィート・ロード」や「美しき人生」などの有名曲も良かったが、新ミックスはアルバム後半の普段なかなか聴かないところまでスポットライトをあてた感じがして、長丁場をストレスなしで聴けるのが楽しい。LPの3枚目にあたる、おまけのようなアップル・ジャムでさえ一気に聴けそうである。鮮明でエッジの取れた音が聴きやすい。
ということで『オール・シングス・マスト・パス』のオーディオ的な到達点がこの新ミックスであると、僕としては認めたい。もちろんそれはハイスペックなハイレゾで聴いての話である。これを聴けば50年前にレコードを買った大人たちも羨ましく思うことだろう。



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