千住真理子、音楽は時空を超えて旅をする 新作はヴァイオリンで歌う世界のメロディ

千住真理子   2021/07/14掲載
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 日本を代表するヴァイオリニスト、千住真理子。彼女の最新アルバム『蛍の光〜ピースフル・メロディ』は、純粋な器楽音楽でありつつも、非常に“歌心”を感じさせる一枚だ。取り上げられているのは、世界各地で愛されている不朽の名曲たち。名器・ストラディヴァリウス「デュランティ」の美しい音色が、シンプルなメロディに新たな息吹を吹き込む。演奏家の呼吸を生々しく映すこの作品は、どのように生まれたのか。制作の舞台裏について伺った。
――最新作の『蛍の光〜ピースフル・メロディ』、すごく“歌心”を感じさせるアルバムですね。ことさらに高度なテクニックを聴かせるのではなく、むしろシンプルでやさしいメロディを、語りかけるように弾いておられて。
「嬉しいです。今回まさに、そういうCDを届けたかったので」
――クラシックの小品から歌曲、民謡まで。世界各地で親しまれてきた17の曲が収められています。いわば“メロディで各国を巡る”構成ですが、このコンセプトはどこから思い付いたのですか?
「背景として大きかったのは、やはり昨年から続くコロナ禍ですね。世界中のあらゆる人たちが大変な状況にあって、ワクチン接種が始まった今でも、多くの方が苦しんでおられます。まだ移動も制限されているし、飛行機に乗ってお互いの国を好きに行き来することもできません。オリンピック開催を巡るゴタゴタで、その不自由さがいっそう強く感じられて……」
――公式ウェブサイトにアップされたエッセイでも、聖火リレーについて葛藤を綴っておられました。
「それも念頭にありました。みんなで心おきなく“平和の祭典”を祝えない今、音楽にできることって何だろう? そう考えたとき、世界中の国や地域で大切に歌い継がれてきたメロディを演奏してみようと思ったんです。聴いた瞬間に、時間も空間も超えてその場所に旅できるのは、やはり音楽の素晴らしさですし。そういう名曲を耳にすれば、日本を含めてすべての国の人たちが、同じように懐かしい気持ちになれるんじゃないかなと」
――選曲はどのように?
「まずは手持ちの楽譜を引っ張りだし、ヴァイオリン以外にも歌もののCDをいろいろ調べたりして。世界中で大切にされてきた曲をピックアップしていきました。収録曲数の倍くらい挙げたのかな。聴いている分には素敵でも、ヴァイオリンで歌いにくい曲って、やっぱりあるんですね。あるいは構成的にピアノの伴奏だけでは再現しにくいとか。せっかく多くの人に親しまれているメロディが、楽器との相性問題で冷たく響いたり、よそよそしく感じられては意味がないので。ヴァイオリンで弾いて、ちゃんと聴く人の心に届くかどうか。そこは一つ一つ吟味しながら、候補曲を絞り込んでいきました」
――1曲目のメキシコから始まって、アラビア、インド、チェコ、イタリア、スペイン、ハンガリー、カタロニア、イングランド、ハワイ、ドイツ、フランス、アメリカ、ロシア、アイルランド、スコットランド、最後にもう一度アメリカ。見事に国が重なっていませんね。
「はい。なるべく多くの国や地域をカバーしたかったので、“1エリア=1曲”というルールを最初に設けて。そこはいちばん悩んだかもしれません」
――よく見ると、ドイツ人のブラームスが曲目によってハンガリー枠に入っていたりして。たしかに苦労の跡が偲ばれます。
「そうなんですよ(笑)。実際、国が被っちゃったせいで入れられなかった曲もかなりあって。そういうときは“次のチャンスに絶対録音しよう”と自分に言い聞かせつつ、今回は泣く泣く諦めました」
――先ほど“ヴァイオリンでは歌いにくい曲”という言い方が出てきました。逆に言うと千住さんにとって、ヴァイオリン演奏における“歌心”というのは具体的にはどんなイメージなのでしょう?
「借り物のリズムやテンポじゃなく、あくまでも自分の呼吸を音にすること。実際には感覚的な部分が大きいんですが、あえて言葉にするとそんな感じだと思います。楽譜に記されたメロディ・ラインを再現するだけじゃなく、自分の内側から聞こえてくる旋律なり言葉にしっかり耳を傾けて。同時に、言いたいことがちゃんと伝わっているか、メロディを深く味わってもらえているかなど、受け手の体温も感じとりながら弾いていく。これがヴァイオリンで歌を伝えるということなのかなと、私は考えているんです」
――情感たっぷりに抑揚を付けた演奏が“歌心がある”と評されることもあります。でも千住さんにとっての“歌心”は、そういうものではない?
「違います。むしろ反対じゃないかな。うまく弾きたいという気持ちだったり、聴衆を感動させたいという邪念だったり、そういう余分なものを削ぎ落とした先にあるのが、自分が求めている“歌心”じゃないかなと」
――なるほど。
「たしかにメロディに抑揚を付けたり、派手なビブラートを多用したりすれば、“歌ってる”印象は出せなくもない。でもそれって結局、本当の自分の声とは違うんですね。この話をするとき、ジャンルはまったく違いますが、私はよく中島みゆきさんやユーミン(松任谷由実)を思い浮かべるんです。おふたりとも、テクニック的には完璧な歌い手ではない。でも、“この人じゃなきゃ絶対にダメ”という表情や息づかいがあるでしょう。それに近いイメージ」
――2人とも自作自演という部分も大きいかもしれませんね。メロディも言葉も自分で紡いでいるので、楽曲と生理的なリズムがぴったり一致している。
「だと思います。だからブレス一つをとっても、“ここしかありえない”という気持ちいい場所に入っている。シンガー・ソングライターだけじゃなく、クラシックの演奏家も同じだと思うんですよ。もちろん最初は過去の作曲家が楽譜に記した音符を正確に奏でるところから始まるわけですが、その次の次の、さらに次くらいの段階になると、かならず“自分の声って何だろう”という大きな壁に突き当たる。私も一時期、本当に悩みに悩みました」
――どのように乗り越えたのでしょう?
「やっぱり楽譜を一度、自分の身体に取り込んで。それこそ牛が草を反芻するみたいに繰り返し弾くことかな。平凡な答えだけど、それしかない気がします。そうやってメロディが自分の血となり肉となったとき、ようやく自分の呼吸で音が出せる。変に崩したり誇張するのとは違った、自分自身の歌い方ができる。(フリッツ・)クライスラーにしても(イヴリー・)ギトリスにしても、昔の優れたヴァイオリニストはみんなそうやって独自のスタイルを作っていったと思うんです。だからベートーヴェンやバッハの組曲を弾いても、洒落た小品であっても、その人にしか出せない表情がある。今の私にとって、そういうのが理想のヴァイオリニストなんです。もちろん壁を乗り越えたわけではまったくなくて。ずっとずっと、悩み中なんですけれど」
千住真理子
――自分の声で“歌う”のは、千住さんにとっても難しいですか?
「とっても難しいです。雑念を振り払い、虚心の自分の声を聴けばいいということはわかるんですが、そうは言ってもお坊さんじゃないですし(笑)。やっぱりいろいろ考えちゃう。でも、先ほど名前が出たギトリスの小品を聴いたりすると、本当に素晴らしいんですね。チャイコフスキーの〈感傷的なワルツ〉なんて、メロディの抑揚じゃなく音そのものが泣いているんですよ。それはもうテクニックで真似ができる領域じゃなくて。彼の魂がそのまま音になっているとしか言いようがない。そういう録音を聴いていると、“あ、自分が出したいのはこういう音なんだ”と心から感じます。ヴァイオリニストとしてどのくらい時間が残されているのか誰にもわからないけれど、きれいに弾いたり、完璧に弾いたりするのは、もういいやって」
――今回のアルバムにも、そういう気持ちは強く反映されていますか?
「まさにそうです。いわゆるクラシックの難曲に比べるとシンプルな曲ばかりですが、だからこそ難しいところもありまして。極端な話、超絶技巧的な曲というのは練習すれば弾けるんですよ。少なくともあるレベル以上の演奏家なら、テクニックで乗り切れちゃう部分がある。反対に、今回のような小品や民謡のほうがごまかしが効きにくいというか。構造がシンプルな分、“やってやる”とか“聴かせてやる”という不要なモーションが聴き手からまる見えになっちゃいがちなんですね。それをぜんぶ削ぎ落としたときに、どんな音を届けられるか。私自身、自分の声で歌う面白さがわかってきたのは、本当に最近のことなので。そういう部分も感じとっていただけたら嬉しいなと」
――具体的な曲についても、少しお話を聞かせてください。1曲目はマヌエル・ポンセの「エストレリータ(小さき星に)」。非常にロマンティックな曲ですが、なぜこれをオープニングに持ってこようと?
「これはシンプルで、涙が出るほど好きな曲なんです(笑)。この曲の主人公は夜空のもと、一人星を見上げて叶わぬ想いを訴える。そういう経験って誰にでもありますよね。私にもあります。そのときの寂しさ、広い空間に一人ぽつんと取り残された切なさ、頼りなさ、肌寒さ。歌い手の置かれた環境や空気の匂いまで、この小品はすべて持っている。私にとって本当に大切な曲なんです」
――2曲目は交響組曲『シェエラザード』から「アラビアの歌」。3曲目は歌劇『サトコ』から「インドの歌」。4曲目はドヴォルザーク作曲の「我が母の教え給いし歌」。すべてフリッツ・クライスラーの編曲です。アルバムにはほかにも3曲、クライスラー編の小品が入っていますね。
「やっぱり、クライスラーはヴァイオリンの良さを誰よりも知っているなと思いますね。アレンジの中に、この楽器ならではの粋な表現をさりげなく入れるのがとても上手で。たとえば原曲の旋律のなかに一つ、目立たない音符を入れることで、ヴァイオリンでの感情表現がすごく豊かになったりする。実際に弾いてみるとよくわかります。本当に楽器の特性を知りつくした人だったんだなと」
――アルバムの題名にもなったスコットランド民謡「蛍の光」では、お兄様の千住明さんが編曲を担当されています。すごくゆったりしたテンポが心に残りますが、レコーディングに際して印象的なやりとりはありましたか?
「リハーサルのとき、兄がスタジオに来てくれまして。“真理ちゃん、この曲は昔から知ってると思うけど、今までのイメージでは弾かないでね”と言われたんです。そうじゃなく、自分自身が90歳とか100歳になって。身体もうまく動かなくなった状態をイメージしてほしい。頭に浮かぶのは、亡くなってしまった大切な家族や親友のこと。そういう記憶を愛でている人の気持ちで、なるべくゆったりしたテンポで弾いてほしいと。それで自分の中のイメージを根本から作り替えて演奏しました。これ以上テンポを落とすと演奏自体が破綻するというギリギリのポイントを探すのが、すごく難しかったです」
――それ以外に、お兄様らしい編曲のポイントを挙げるとすると?
「たとえばヴァイオリンは4拍子で、伴奏のピアノは3拍子になっているとか。テンポを落としても緊張感が途切れないように、細やかな工夫がいたるところに入っています。その分、演奏者2人の息をぴったり合わせるのが大切で」
――今回、ピアノ伴奏は、全国でステージを共にしている相棒・山洞智さんが務められています。その意味では全編、阿吽の呼吸を感じました。
「ありがとうございます。じつは今回、レコーディングが急きょ決まったこともあって、あまりリハーサルができなかったんですね。山洞さんがいなければ、この企画は成立しなかったと思います」
――アルバムの最後を飾る「アメイジング・グレイス」は、千住さんご自身の編曲。無伴奏のソロ演奏ですね。
「はい。ピアノ伴奏付きのヴァージョンは過去にレコーディングしていますが、無伴奏での録音は初めてです。ただボランティアの活動では、以前から一人でよく演奏していたんですね。私にとってこの曲は、純粋な祈り。たぶん多くの人にとってもそうだと思います。もちろん目の前の現実に対して祈りたい人もいらっしゃれば、亡くなってしまった人に祈りを捧げたい人もおられると思う。そういう人の想いをすべて受け止める深さが〈アメイジング・グレイス〉にはある気がするんです。だから今回のCDを作ろうと思ったときから、この曲をアルバムのどこに置けばいちばん伝わるかをずっと考えていました」
――無伴奏にしたことで、演奏家の祈りの声がより純粋に伝わるようになった気がしますね。大サビのところでテンポに溜めがあり、ヴァイオリンの音色が複弦の重音になるところなど、個人的にはバッハの無伴奏ヴァイオリンを連想したりもしました。
「そう感じていただけたのならすごく嬉しいです。ヴァイオリンの弦で祈りを表現するとなると、私の心にある原風景はやっぱりバッハなので。このCDで、無伴奏で〈アメイジング・グレイス〉を弾くとなったとき、響きの記憶としてそれが無意識に出た部分はあると思います」
――最後に、本作を手にする人に何かメッセージをいただけますか?
「そうですね。ありきたりですが、このCDを聴いて懐かしい気持ちになってくださったら、演奏家としてすごく嬉しい。私自身、一曲ごとにメロディを弾く喜びを感じることができました。ストレスで大変な思いをされている方って、本当に多いと思うんですね。そういう方がほんのひとときでもリラックスし、心の平安を取り戻してくれたらと願いながら、このアルバムを作りました」
取材・文/大谷隆之
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