ニューエスト・モデル結成30周年記念 中川 敬が語る“最新型”の9年間と現在のリンク

ニューエスト・モデル   2016/08/31掲載
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 この人の話を聞くのが好きだ。とにかく膨大なエネルギーを感じるから。まくしたてるように次々と言葉を口から出し、その言葉の一つ一つがウィットに溢れていて、猛烈な求心力を纏っている。それはもちろん彼(ら)のライヴ・パフォーマンスにも言えることで……というか、あのライヴのパッションがとどまることなくそのまま一個人としての素顔にも表出されている、と解釈すべきだろう。それは紛うことなきロックのエナジー。だから、本音を言うと、1990年代に沖縄やアイルランドなど様々な国、エリアの民謡を取り入れるようになった時にやや寂しさを感じたりもした。だが、今思えばそれもまたエネルギーの澱みない放出作業だったのだろう、と今にして思う。全ては地続き。最初からずっとこの人は“中川 敬”であり続けてきた。中川 敬はいつも中川 敬。アコースティック・ギター1本で日本全国を回っているかと思えば、ニューエスト・モデルの曲もガンガンとりあげたツアーも展開する、そんな昨今の柔軟な中川の活動を見ていると、そんなミもフタもない、でも、他のアーティストには到底ハマらないある種の暑苦しい、その暑苦しさこそがロックだと言いたくもなるコピーが思い浮かぶ。
 そんな中川 敬の初期のキャリア=ニューエスト・モデルの約7年のキャリアをまとめた『ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986-1993』、さらに全キャリアを対象にスピッツ、岸田 繁曽我部恵一二階堂和美仲井戸麗市大森靖子原爆オナニーズまでがそのパッションにトライしたトリビュート・アルバム『ソウル・フラワー・ユニオン&ニューエスト・モデル 2016 トリビュート』が好評だ。というわけで、この機会にニューエスト・モデル結成前夜から現在に至るまで、突き動かしているものは何なのか、中川 敬に久々に語ってもらった。取材時間は実に3時間。雑談も入れて、だけど。ここには書けない話も満載だったけど、ともあれ、何を話しても言葉が溢れ出るその様子に、“中川 敬は中川 敬”を感じ取ってもらいたい。
「ザ・ベスト・オブ・ニューエスト・モデル 1986-1993」
「ソウル・フラワー・ユニオン&ニューエスト・モデル 2016 トリビュート」
――まずは、ニューエスト・モデル結成前の話から聞かせてもらえますか。
 「結成する前の5年ぐらいの間、10代後半は、俺、ずっとジョニー・サンダースとかキース・リチャーズとかが好きなギタリストでね。16ぐらいから大阪ミナミのロック喫茶の常連になって、10コ上ぐらいの世代からいろいろ教えてもらって。グラム・ロック、パンク・ロック、ソウル・ミュージック……あとワルいこともね(笑)。その頃、俺はレモン・スクイーザーっていうバンドをやってて、そこには別にヴォーカリストがいたんやけど……まあ、バンドって言っても、高校生とかやし、どうやって次にいく?みたいなのが全くわからない状態でやってた。今と違って、80年代前半なんて、レコードを出すっていうのは……インディーズなんて言葉もまだなかったし……イコール、オーディションを受けてメジャー・デビューみたいな感じやった。で、高校出てからロック喫茶でバイトをするようになって。そこの常連たちがやってたバンドのギターに欠員が出たっていうことで、“入ってくれへんか?”って言われて。そのバンドはエアロスミスみたいなハードロックを志向してたバンドで、“俺、合わへんかもな……”と思いながらも、大阪の“バーボンハウス”、京都“磔磔”、東京“ラ・ママ”や“LOFT”とかでもライヴをやってるようなバンドやったから、そういう有名なライヴ・ハウスでやってみたい、という好奇心が勝って。自分のバンドをたたんで、1年間はそのバンドでギタリストをやってた。アクシデンツと対バンして原島くん(スマイリー原島 / 原島宏和)と出会ったり、LOFTで一緒になったアウトっていうバンドでは春日博文がドラムを叩いてり……。で、朝までそういう上の世代の連中と騒いだりしてた(笑)。それが18の頃。ところがそのバンドが1年で解散してしまうんよね。85年12月。で、その日のうちに、以前のバンド、レモン・スクイーザーのドラマーとベーシストに電話をして。“バンドをやるぞ。今度は俺が歌う。ザ・ジャムみたいなのをやるから一緒にやってくれ”って。とりあえずトリオで始めるからって」
――それがニューエスト・モデルの誕生。音楽的なコンセプトはかなり明確でフォーカスされたものだったんですね。
 「そう。もうバンド名も決めてた。でも、“最新型”って、なんて生意気なバンド名やって思うよね(笑)。モハメド・アリが若い時に自分のことを“Greatest”って言ってしまうあの感じやね。音のイメージとしては、わかりやすく言うと、パンク・ロックの土台の上に、ビートルズ『Revolver』の感じとか、ザ・ジャムの『Sound Affects』とか、キンクス『Something Else』とか、モッズ・ミュージックやねんけどバラエティに富んだ、あの感じをトッピングする。66年と81年をくっつけたようなバンドがしたかった。サイケデリア・モッズのパンク・ヴァージョンというかね。そういうのがやりたいなって思って。ヴェルヴェッツとかドアーズあたりも大好きやったし。まあ、もう一つは、比較的やりやすいんじゃないかっていうのもあった。技量的にね。当時、他にも沢山の音楽を聴いてたけど、メンバーが5、6人必要で、テクニックもないと出来ないようなイメージの音楽は脳内から排除される。でも、ザ・ジャムがシュープリームスの〈Back In My Arms Again〉をやってて、それがすごく汚い演奏でね(笑)。あと、スージー&ザ・バンシーズTレックスの〈20th Century Boy〉をパンクな演奏でカヴァーしてたり。そういうのにヒントがあった。俺らみたいなヘタクソでもやれるんじゃないかって。ただ、当時俺らの周り……まあ、奈良に住んでたし、ウロウロしてたのは大阪ミナミで、そういう趣味のヤツってほぼいなくて。周囲はハードロックとかフュージョンを聴いているヤツが多い時代。レインボーラウドネス44マグナム高中正義……。まあ、俺はとにかくロックが好きでね。こんなこと言ったら本当の親が悲しむかもしれないけど、ロック・ミュージックを最初に聴いて胸を撃ち抜かれた時に“本当の親にやっと出会えた”ぐらいの感じがあって(笑)。ロックがなかったらちょっとヤバかったかもね。ずっと一人で孤独で、自分探しをしているような、徹底的に逆張りの10代やったしね。バンドをやる、っていうことに、自分のすべてを総動員してた頃やね」
――ただ、それこそ“最新型”というバンド名をつけたように、中川さん自身はロックに対する愛情は人一倍だったにせよ、ニューエスト・モデル自体は最初からいわゆるロックンロール馬鹿一代のようにストレートなだけのバンドではなかった。誰もやっていないこと、最先端のことをロックでどう表現しようか、というような意識はどの程度持っていたのでしょうか。
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 「人と違うことをやりたかったというのはすごくあった。もちろん、いかにもこれビートルズやん、ストーンズやん、っていうようなバンドでも、ええな、好きやなって思えるバンドはいたよ。でも、それではダメやって思ってた。やっぱりどこか“勘違い”が入らないと面白くないって。ハタチくらいの頃から、俺、そう言ってたしね。そういう感覚が全面に出たのがニューエストの3枚目『ソウル・サバイバー』。あれは、ストーンズの『Beggars Banquet』やビートルズの『サージェント・ペパーズ』っぽい部分があったりするんやけど、実際は原典に当ってないんよね。あれは真似じゃない。勘違いから生まれた奇形の日本のロックになってる。つまりそういうことが、当時的には最新型というか、誰もやってないことをやりたいっていうことにつながってたとは思うね。真似はしない。原典にあたらない。脳内にあるあらゆる音楽の要素を“勘違い”も含めてミクスチャーして形にする、っていう」
――ニューエスト・モデルは短い活動期間の中で鮮やかにプログレスしていましたが、そうやって活動している中で音楽性を発展、進化させていくことも一つの目標だったのですか?
 「いや、最初は無邪気というか、バンドやってるだけで楽しかった。少なくとも87年ぐらいまでは。でも、今思えば、割と最初から次々と新しいことをやろうとしてる。85年、まだニューエスト・モデルも結成されてなくて、大阪ミナミのロック喫茶でバイトをしていた頃、LAUGHIN'NOSEが大阪にやってきてアメリカ村でソノシートをバラまいた。東京やとアルタ前でやったあれやね。で、バイトを少し抜け出して見に行ったわけやけど、その時にあれええなーって思って。それで俺らも結成してすぐにソノシート『オモチャの兵隊』を作った。で、今度は“もっとカタいのが作りたいな〜”ってことになって(笑)、それで、ちょっと前にRBFレコードの主宰・西村茂樹(元ザ・ルーズ, ラウド・マシーン, ザ・グルーヴァーズ)が“一緒にやりましょう!”って言ってくれてたので電話をして、“レコード出してくれへん?”って頼んで。それで出たのが“カタくなった”EP『ニュー・ファンデーション』、4曲入りやね(笑)。そしたら、今度はもっとおっきいのを作りたくなった。LPやね。1stアルバム『センスレス・チャター・センスレス・フィスツ』。すると、今度は自分たちでレコードをリリースしたくなった。で、ソウル・フラワー・レーベルを立ち上げて2ndアルバム『プリティー・ラジエーション』を出した。まあ、そんな感じで、とにかくメジャーに行くまでは、1作1作、次に行こう次に行こうとしてた。自分たちのアクションとして、自分たちにとって新しいことを次々とやっていくことに大きな意味を感じてた。ただ、その頃は俺もレコード屋(大阪の“キングコング”)でバイトしたりしてたから、時間的な余裕もなかったし、バンドとしてはまだ技量もないから、音楽面ではやりたいことがすぐにはかなわなかったけどね」
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――そうした中で音楽的に次のステップに向かうきっかけとなったのはいつ頃だったのでしょうか。
 「88年。ポーグス『堕ちた天使』を出した年で、ヴァン・モリソンチーフタンズ『Irish Heartbeat』を出した年。あと、ハウスが一般化するのもこの頃で、洪水のように俺の頭の中にこれらがやってきた。セカンド・サマー・オブ・ラブ。しかも、レコード屋でバイトしてたから古いものもそれまで以上にたくさん聴ける環境で、一方でCDが出てきたりもしてた。で、極めつけが、ボ・ガンボスをその年の前半に見ていること。俺のやりたいことを全部やってるやん!って(笑)。そこらへんからやね、ニューエスト・モデルが音楽的にも大きく変化していくのは。あと、その頃、俺と、当時メスカリン・ドライヴをやってた伊丹英子は公私ともにパートナーで、2人で独特な世界を見ながら一緒に行動してた。2人ともある種のストレート・エッジで、大企業の太鼓持ちなんて絶対にせえへんで、みたいな感じでね。でも、そういう思想のバンドって大概はハードコア的な音楽になる。なんでパンク・バンドは、色々な音楽をミクスチャーさせる音楽をやらないのか?って、そんなことばっかり当時の俺らは話してた。そういう思想が『ソウル・サバイバー』や『クロスブリード・パーク』につながっていく。こういう考えやったらこういう音楽になる、こういう音楽やったらこういうファッションになるって、あたかも決まってるかのような世界がすごいイヤやったんよね。しかも、こういう思想の人間が俺だけやなくてもう一人(伊丹英子)いたっていうのが大きかった。一人やったらあそこまで先鋭化しなかったかもしれないね」
――他のメンバーにはそういう話をしなかったんですか?
 「してたんやけどね。なんか暑苦しいなあって思われてたかも(笑)。まあ、ヒントに溢れてる時代ではあったからね。俺らだけじゃなくて、イギリスにはスペシャルAKAビリー・ブラッグみたいなバンドやアーティストがいた。そういう参考になるような動きが世界を見回したらいたっていうことも大きかった。例えば〈雑種天国〉って曲には確かにカリプソとかソカの影響があるけど、あの曲はあくまで妄想で作ったようなものでね。例えば『MUSIC MAGAZINE』が“ワールド・ミュージック”って言葉を流行らせたり、KUSU KUSUみたいなバンドと対バンになって刺激を受けたり。彼ら、アイドルみたいに扱われてたけど、面白いバンドやったよ。で、俺はそういう感覚を理解しながらも、あまり頑張って勉強するんじゃなくて、あくまで妄想で面白くやってみようとしてた。もちろん、ちょうどメジャーに行って、バイトしなくてもいい、レコーディングだけに1ヶ月も使える、とかっていうのもあった。それまで抑えていた音楽面での冒険とか創作への意欲みたいなのが一気に出たっていうのもあった。でも、それでも俺は自由に想像して自己解釈する余地みたいなのを残したかった。ワールド・ミュージック的な世界に入り込む気はなかった。だから、ライヴでの仮想ライバルがボ・ガンボスやったとしたら、音盤制作での仮想ライバルはフリッパーズ・ギター、みたいな(笑)。特に彼らの2ndから『ヘッド博士の世界塔』への流れとか、良かったな。そういう音楽への接し方……俯瞰した視点を持ってたっていうことやね。DJ的というか、評論家的な(笑)」
――そうした開かれた視点を自覚する中で、ニューエスト・モデルは、のちにソウル・フラワー・ユニオンへとカタチを変えていきます。それは音楽的な発展を踏まえてのことだったと今振り返ってみて思われますか?
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 「例えば90年代後半に渋さ知らズのようなバンドを見て、わあ、やられた、と思ったこともあった。のちのちソウル・フラワー・ユニオンとモノノケ・サミットが融合して、大編成で“世界民謡”みたいなのをやるイメージを持ってはいた。でも、今となっては、ニューエスト・モデルのようなバンドを10代の中川 敬はやりたかったわけであって、その続きを今もずっとやっているような感じもある。好きなんやろうね、4、5人ぐらいで何かを一緒にやるのが。メンバーが増えてくるといろいろ大変やし(笑)。例えば、どこかのバンドの演奏が、ライヴとかであたかもインプロが10分ぐらい続いているように聞こえても、それは俺にとってはすごい決めごとなわけ(笑)。それやったら、4、5人ってことがまずあって、重要な主旋律だけが決まってて、ある種、“揺らぎ”があっても許されるとか、日によっては演奏がフニャフニャであっても許されるという、そういう、いわばロックっていう形態の中での一期一会性の方が俺にとっては自由やったりするわけ。まあ、根本的に俺は歌とメロディが好きで。例えば、いしだあゆみ〈ブルーライト・ヨコハマ〉とか青江三奈〈伊勢佐木町ブルース〉とか、幼児の頃にそういう曲を好きになってから、ずっと歌とメロディが好きでここまできてる。歌とメロディが軸にある音楽をやっていくっていう、そこだけは変わらないと思うね」
――私は中川さんに対し、ある時期はロックではなく、いわゆる様々な国のフォークロア・ミュージックにのめり込んでいるようにも思えました。
 「まあ、実際そういう時期もあるよね。でも、今日はロックの話ばかりしてるという(笑)」
――ええ(笑)。それは地続きなのでしょうか?
 「まあ、結局のところ、歌、メロディ、あとリズムね、そこに尽きる。そういう意味では変わってない。アイリッシュ・ミュージックにハマったり、エチオピークにハマったり……ってそういう時期は確かにあるけど、聴いているのは歌とメロディとリズムなんよね。で、そうやって色んな土地の音楽、歌、メロディ、リズムが発酵して新たな音楽になるっていう、もうそれ自体がロックっていう感じやね」
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――以前、中川さんの取材をした時、“ジョン・レノンの曲も俺の曲も、手を離れたら誰のものでもない、みんなで共有するものだ”というようなことを話されていました。
 「覚えてない(笑)」
――横浜・寿町のイベントの楽屋をお訪ねした時なので、00年代前半でした。すごく豊かな思想だと思うのですが、そうしたどこの国のいつの時代の誰もが共有できる歌とメロディとリズム……という思想を自覚、意識するようになったのはいつのことでしょうか?
 「やっぱり一つには阪神淡路大震災やね。あの頃以来、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットで俺らは色んな歌を歌ってきた。震災当初は、朝鮮民謡の〈アリラン〉やったり、中山晋平〈カチューシャの唄〉やったり、鳥取民謡の〈貝殻節〉やったり、京都の〈竹田の子守唄〉やったり。モノノケ・サミットのライヴで、オリジナルでやってた曲は〈満月の夕〉ぐらいで。つまり、歌はどこからやってきたんだろう?って考える時期でもあった。俺の歌う〈アリラン〉は俺の〈アリラン〉や、みたいな風に思ったりもして、それを被災地で在日のおばあちゃんに話したら“わかるで〜”って言ってもらったり(笑)。だから、ニューエスト・モデルの活動期はそんなこと全然意識してなかったから、間違いなく震災以降のことやね。ニューエスト・モデルの音盤に関してはそこまで辿りつけなかった。最後のアルバム『ユニバーサル・インベーダー』を出した後も1年ぐらいニューエストは活動してたんやけど、その時期がまさに模索の時期でね。その時の模索が作品に現れたのがソウル・フラワー・ユニオンの2ndアルバム『ワタツミ・ヤマツミ』やった。あのアルバムは半分がニューエスト・モデル後期の曲でね。あたまの中でずっと考えていたことが表面化、可視化されるのに2年ぐらいかかる」
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――90年代も半ばになると、例えばベックのようなアーティストが出てきますよね。サンプリングと生演奏をミックス、ルーツ・ミュージックとヒップホップとを出会わせたような感覚が新鮮でした。ただ、その頃の中川さんは、震災があったというのも大きいでしょうけれどあまり共振している印象はありませんでした。当時はどのように思っていましたか?
 「興味はあったし、もちろん聴いてもいた。でも、当時の俺はあまりにもソウル・フラワー・ユニオンとモノノケ・サミットで忙しくて、トラッドと民謡にドップリ浸かってた。1日に24時間しかないという、極めて物理的な理由やね。ロック史的にもかなり重要な活動をしてるっていう自負もあった(笑)。あと、伊丹英子という、同じ感覚の仲間がいたというのもやっぱりある。最近こうやって過去を辿るインタビューに応えるようになって思うのは、ニューエスト・モデルっていうのは極めて“初期ソウル・フラワー・ユニオン”やったっていうこと。例えば、ソウル・フラワー『カムイ・イピリマ』、あれは実質的にはメスカリン・ドライヴのアルバム。それを俺らニューエスト組が手伝った。それ以前……ニューエストの最後の2年ぐらいから、伊丹英子は俺に作詞作曲の相談をしたり、俺は俺でメンバーじゃなくて伊丹英子に相談したりしてて、2つのバンドがどんどん融合されていった中で、ニューエストからソウル・フラワーになってしばらくは、俺自身の曲は外に発表する機会がなかった。『カムイ・イピリマ』は伊丹英子の曲で構成されたアルバムやったからね。で、次に俺の曲をちゃんとカタチにしようとして作ったのが2ndの『ワタツミ・ヤマツミ』……とまあ、そういう流れがあったから、とにかくソウル・フラワー・ユニオンをちゃんと動かしていくことで忙しくなったのが90年代半ばで、加えて震災が起こる。そういう意味では、ソウル・フラワー・ユニオンとしての実質的な最初のアルバムは、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットとして震災を受けて作った『アジール・チンドン』(1995)という感じがある。で、その後『エレクトロ・アジール・バップ』(1996)をソウル・フラワー・ユニオンで出して……まあ、そこがソウル・フラワー・ユニオンの第一歩やったと思うね。だから、俺の中では完全に繋がってて。今回6月、ツアーでニューエスト・モデルの曲を沢山やってみてわかったのは、何の違和感もなかったっていうことでね。今のソウル・フラワーのメンバーで俺と奥野(真哉)を除く伊藤孝喜、高木 克、阿部光一郎にとってはニューエストの曲は全部新曲なわけ。17曲の新曲(笑)。それを彼らはやってくれたわけやけど、ソウル・フラワーの曲をやっている時と比べても全然違和感がない。完全に俺と奥野の音楽。繋がってた」
――では、そうした地続きの活動の中で、次に大きな手応えを感じた、一つの達成感を得たのはどのタイミングでしたか?
 「ニューエスト・モデルを19の時に作ってから、ようやく音楽的に世界の誰にも作れない自分たちの音楽を作ったっていう達成感があったのは、ソウル・フラワー・ユニオンになってからやった。95年に〈海ゆかば山ゆかば踊るかばね〉〈満月の夕〉あたりが出来た時は、ちょっと小躍りしたね(笑)。で、その次は詩作面になる。〈そら〉とか〈荒れ地にて〉とか〈海へゆく〉とか、あのあたりの歌詞が書けた時は手応えがあったね。若い頃はそういう歌詞が書けなかったからね。91年か92年にイギリスのビリー・ブラッグと対談したんやけど、その時彼が“なんで日本の音楽はこんなにアメリカナイズされたものばかりなんだ!”って憤っててね。“それ言うたら、なんでお前ら欧米人はマゼランやコロンブス以降こっちに土足でずかずか来るんや!”って冗談で返したら、彼は大爆笑してたよ(笑)。その時改めて思ったのは、まあ、もはや欧米発のロックからは逃れられないけれども、“ここの音楽”を作っていかなアカンなっていうこと。しかも東京ではなく俺の住んでる関西でね」
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――東京に暮らしていたことはあるんですか?
 「ない。一度も。東京に住んでる女の子と付き合ってる時はよく部屋に転がり込んでたけど(笑)」
――そこはニューエスト・モデルとソウル・フラワー・ユニオンを語る上ですごく重要なことだと思うんですよ。中川さんが関西に暮らしているという点。おまけに、奥野さんは今東京にいらっしゃったりして、全員がそんなに頻繁に集まれる状況ではない。それでもやれている、というか、それが一つの力になっている。
 「そうやね。ドーナル・ラニーモザイクっていうバンドなんて、メンバー全員住んでる国が違う。ニューヨークのヤツもいればハンガリー、アイルランド……オランダに住んでるヤツもいたね。ツアー前に集まって集中して練習するっていうね。そういうサンプルがあったというのもある。俺らもできるんじゃないかっていう。ただ、関西がメチャクチャ好きっていうわけでもない。これがもはや当たり前。好きっていうだけやったらダブリンの方が好きかもしれない(笑)。あいつらが関西弁しゃべってくれたら、俺、ダブリンに引っ越ししてもいい(笑)。まあ、もちろんね、関東は山がないとか、そういう環境が好きになれないというのはある。今住んでるところはすぐそこに山があってね。東京行って新幹線で京都に帰ってきたら、まず駅でうどんを食う、という習慣もある(笑)。関西にいるのは、俺にとって、あまりに当たり前っていうことに尽きるな」
――さらにもう一つ、細かいことなんですが、私、中川さんの作品は昔からアルバムや曲のタイトルがとにかく粋でカッコいい、洒落ているところが好きで。しかも、そこに猛烈なメッセージが込められている。『センスレス・チャター・センスレス・フィスツ』『プリティ・ラジエーション』など初期からタイトルにシャープなセンスを感じていましたが、こうしたある種の社会的テーゼとも思える言葉遣いはどういうところから得たものなのでしょうか。
 「当時、イギリスの反核運動のミニコミが輸入レコード店においてあって、そういうのも元ネタやったね。チラシとかのデザインの参考にしたくて。そこから見つけた言葉を参考にしたり。『センスレス・チャター・センスレス・フィスツ』はまず歌詞が先にあって、それを英語にしたらどうなるかな?って、洋子ちゃん(うつみようこ)に相談したり。初期の頃は英語は彼女にチェックしてもらってたよ。彼女の英語はネイティヴやからね。当時のインタビューでもよく聞かれたよ。『ROCKIN'ON JAPAN』の山崎洋一郎とかに“どうしてこういう、他のアーティストからは出てこない語彙が出てくるんですか?”とかね。そのたびに俺ははぐらかしてた。“俺、別にハイウェイを飛ばしたりしないし、夜通し踊ったりしないし”とか言って(笑)。まあ、このあたりも、今やってることとつながってるよね」
取材・文 / 岡村詩野(2016年6月)
続・ニューエスト・モデル結成30周年記念ツアー
・2016年9月18日(日)
福岡 天神 the voodoo lounge
ゲスト: 中田裕二
開場 18:00 / 開演 19:00
一般 前売 4,500円 / 当日 4,900円 (税込 / 別途ドリンク代 / オールスタンディング / 整理券付き)
学割 前売 2,250円 / 当日 2,450円 (税込 / 別途ドリンク代)
※中学生以下は入場無料(保護者同伴でご入場ください)。
※学割チケットは高校生・大学生の方が対象となります(学生証をご持参ください。ご入場順につきましては、一般チケットの整理番号をお持ちの方の後になります。一般チケットをお持ちの方と同伴の場合はご一緒にご入場できます)。
※「託児所」等お子様をお預かりする施設、スタッフ等はご用意しておりません。公演中はお子様から目を離さないようご注意ください。
※付き添いが必要な障がい者の方に限り、介護の方1名は入場無料とさせていただきます(障がい者手帳を必ずご持参下さい)。
ぴあ(P 303-607) / voodoo Lounge店頭

※お問い合わせ: voodoo Lounge 092-732-4662



・2016年9月19日(月・祝)
大阪 心斎橋 Music Club JANUS
ゲスト: チャラン・ポ・ランタン
開場 18:00 / 開演 19:00
一般 前売 4,500円 / 当日 4,900円 (税込 / 別途ドリンク代 / オールスタンディング / 整理券付き)
学割 前売 2,250円 / 当日 2,450円 (税込 / 別途ドリンク代)
※中学生以下は入場無料(保護者同伴でご入場ください)。
※学割チケットは高校生・大学生の方が対象となります(学生証をご持参ください。ご入場順につきましては、一般チケットの整理番号をお持ちの方の後になります。一般チケットをお持ちの方と同伴の場合はご一緒にご入場できます)。
※付き添いが必要な障がい者の方に限り、介護の方1名は入場無料とさせていただきます(障がい者手帳を必ずご持参下さい)。
ぴあ(P 302-745) / ローソン(L 52510) / CNプレイガイド 0570-08-9999 / e+ / GREENS! /Music Club JANUS店頭

※お問い合わせ: Music Club JANUS 06-6214-7255



・2016年9月24日(土)
東京 下北沢 GARDEN
ゲスト: 仲井戸“CHABO”麗市
開場 18:00 / 開演 19:00
一般 前売 4,500円 / 当日 4,900円 (税込 / 別途ドリンク代 / オールスタンディング / 整理券付き)
学割 前売 2,250円 / 当日 2,450円 (税込 / 別途ドリンク代)
※中学生以下は入場無料(保護者同伴でご入場ください)。
※学割チケットは高校生・大学生の方が対象となります(学生証をご持参ください。ご入場順につきましては、一般チケットの整理番号をお持ちの方の後になります。一般チケットをお持ちの方と同伴の場合はご一緒にご入場できます)。
※「託児所」等お子様をお預かりする施設、スタッフ等はご用意しておりません。公演中はお子様から目を離さないようご注意ください。
※付き添いが必要な障がい者の方に限り、介護の方1名は入場無料とさせていただきます(障がい者手帳を必ずご持参下さい)。
ぴあ(P 303-122) / ローソン(L 77377) / SOGO TOKYO / e+

※お問い合わせ: SOGO TOKYO 03-3405-9999


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