今年、デビュー60周年を迎えた
加藤登紀子が8月23日、中国・ハルビン音楽庁ホールにて〈加藤登紀子コンサート2025 in Harbin with ハルビン交響楽団〉を開催し、1100席を超える満席の観客を魅了しました。
[ライヴ・レポート] かつて「ハルビンは私の生まれた街です。2歳半でここを去りました。思い出のない故郷です」と語っていた加藤は、1943年にハルビンで生まれ、2歳で日本に帰国した。その後、1965年、東京大学在学中に歌手デビューを果たす。1981年に彼女が初めてハルビンへ戻った時にハルビンの夏20周年記念コンサートへの出演依頼を受ける。彼女はハルビン音楽協会から招待された最初の外国人となった。
当時、日中国交正常化から10年も経っておらず、中国は世界に向けて門戸を開いたばかりだった。両国の国民交流は始まったばかりだったが、文化芸術分野における深い交流はまだ模索の段階にあった。当時38歳だった加藤は、日本でよく知られた歌手として中国公演に招かれた。ハルビンでの初めてのコンサートは、モンゴルの歌「エージデー母よ」で幕を開けた。その歌声は、まるで家に帰ってドアを開けて「お母さん」と声をかける子供のようだった。
長年にわたり世界各地で公演を行ってきた加藤は、国際的な影響力を持つ先駆者として、音楽を通して友情を育むだけでなく、環境や平和といった地球規模の問題にも深く関心を寄せてきた。今回のハルビン公演では、「知床旅情」など数々のヒット曲に加え、ジョン・レノンの「イマジン」も披露し世界平和へのメッセージを訴えた。
今回のハルビン公演には、菅野よう子、五条院凌、Yaeといったミュージシャンたちが日本からキャスティングされていたが、今年81歳となり、デビュー60周年を迎えた新たなスタートとして、これからを担う若いミュージシャンも紹介された。その一人が、24歳のNozomi Lyn(ノゾミ・リン)だった。
加藤はステージで、「私はNozomi Lynのために『渡り鳥の子守唄』という曲を作りました。黒龍江省のタンチョウは産卵のために日本に飛来し、孵化したタンチョウは自ら故郷の黒龍江へ帰っていくと聞いています。Nozomiさんのお母さんは黒龍江省で生まれ、その後日本に留学しました。娘さんであるNozomiさんは日本で生まれ、その後上海で学校に通いアメリカに留学。現在、アメリカで音楽活動をしています。彼女も故郷へ帰ろうと奮闘する渡り鳥の一羽なのだと思います」と、渡り鳥に例えて話した。
Nozomi Lynは、2000年に東京で生まれた。幼少期を日本で過ごし、上海、バンクーバー、ニューヨークに留学。ニューヨーク大学では音楽の学士号と修士号を取得した。日本語、英語、中国語が堪能な彼女は、異文化コミュニケーションにおいて大きな強みを持っている。母親の出身地は中国・黒龍江省。まさに加藤登紀子の「渡り鳥」の比喩にぴたりと当てはまる。
コンサートでNozomiは「渡り鳥の子守唄」を流暢な日本語と中国語で歌い上げ、中国と日本から集まった観客と瞬時に一体感を味わった。この曲の中国語版は著名な作詞家兼音楽プロデューサーの崔轼鉉氏と、日本華僑華人文学芸術界連合会名誉会長の唐亜明氏が訳し、英語版はNozomi自身が訳している。
Nozomiは、「加藤さんに初めてお会いした時、魔法のようなカリスマ性を感じました。周りの人に伝わる温かさと前向きな姿勢に深く感銘を受けました。私もこの姿勢を人生で大切にしていきたいと思っています」と振り返り、「『渡り鳥の子守唄』という曲をハルビンでのコンサートで歌い、さらにリリースしたいという話を聞き驚きました。この曲を聞いたとき、詩的で美しく、メロディーと歌詞が完璧に調和し、様々な国や文化に触れてきたかのような感覚になりました。まるで私の物語であり、私を待っていたかのようにも感じました」と、この曲との出会いを語った。
加藤が「渡り鳥の子守唄」という曲をNozomi Lynに託し、「渡り鳥」の物語をハルビンの観客に語り掛けたのは、音楽を絆として使い、故郷ハルビンに「感情の遺産」を永続させようとしているからだと感じる。彼女は、堅苦しい儀式よりも音楽や物語といった温かく人間味あふれる媒体が、人間の共感の奥底に触れることができることを理解しているのだろう。Nozomiのような若い音楽家たちは、まさにこの共感の「未来の担い手」なのである。
加藤登紀子が自身の人生と重ねた「渡り鳥」の物語とともにこの歌を託されたNozomi Lynの名前は「希望」を意味している。まさに「渡り鳥」のように国境を自由に越えるアーティストとして、今後のグローバルな活躍を期待したい。
文: 劉鳳梧