24歳の時に5歳下のブロンドヘアのジェーンと結婚し、翌年に娘マリオンをもうけます。この頃は公私とも充実していたようで、「草競馬」(Camptown Races)や「ドリー・デー」(Dolly Day)をはじめ、傑作を次々と作曲します。ただ、これまでのミンストレル・ソングを中心としていた作風から、次第に悲哀を紡ぐものへと変化。「スワニー河」の別名でも知られる「故郷の人々」(Old Folks at Home)や「主人は冷たい土の中に」(Massa's in De Cold Ground)などからはその傾向が顕著となりました。1853年にはケンタッキー州の州歌で、日本ではケンタッキー・フライド・チキンのCMソングとしてもおなじみの「ケンタッキーの我が家」(My Old Kentucky Home)を作曲。同曲はアメリカ競馬のケンタッキーダービーの際に演奏され、1982年からはフォスターの名を冠した「スティーヴンフォスターハンデキャップ」というレースも行なわれるようになりました。
1854年に妻ジェーンをモチーフとしたと思われる「金髪のジェニー」(Jeannie With the Light Brown Hair)を発表し、ニューヨークへ移り住みます。しかし、ニューヨークの水が合わなかったのか、ピッツバーグへ戻ったり、再びニューヨークへ出たりするなか、両親や兄の死去の影響もあり、フォスター家を経済的な打撃が見舞います。それまで複数の出版社がフォスター作品を出版して利益を上げながら、フォスターはその報酬をほとんど与えられずにいたこともあり、さらにフォスターの収入が減っていきます。そのような借金暮らしによる困窮した生活を続けながら、「オールド・ブラック・ジョー」(Old Black Joe)などを発表していきます。